2019年02月04日

インドのレコード収集家インタビュー

 Scroll.inというインドのサイトでステキな記事を見つけたので、紹介したいと思います。いろいろな問い合わせに親切に応じていただいたナレシュ・フェルナンデスさんは、このサイトを設立メンバーのひとりで、自らインドのジャズのレコードのコレクションをしているとのことです。


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インドのレコード収集家インタビュー

 50年以上に渡ってレコードの収集とコレクターのコミュニティー作りに努力してきたムンバイ在住の科学者、スレシュ・チャンドヴァンカールが、自身のコレクター人生について振り返る。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じているのか?」

文:ルドラディープ・バタチャルジー


 目覚まし時計は午前5時にセットされているのだが、私は数分早く起きてしまった。今、この瞬間、世界の別の場所では、痛む膝を抱えたサウラシュトリア人(インド南部)と、31歳にして頭がハゲているニュー・サウス・ウェールズ人(オーストラリア東南部)が----どちらも絶滅危惧種だ----面白い内容になる違いない次の試合のためのウォーミングアップをしている頃だろう。
 しかし、このクリケットのテストマッチを見たいという誘惑をきっぱりと拒み、それに屈しなかった私は、列車を3回乗り換えながら移動し、4時間後にはバドラプールから遠く離れた郊外の町にいた。そして、スレシュ・チャンドヴァンカールの案内で階段を上って行くと、まさに彼の根城と言うべきところに到着した。
 チャンドヴァンカールは60代後半の華奢な体格の人物で、いつも肩からカバンをさげている。いかなるスポーツにも全く興味を持っていないようなのだが、「歩くのは好きだよ」とは言っている。彼がこの家を購入したのは1990年代後半で、「その時は、ここには何もなかったよ。家からはいろんな山が見えた」とのことなのだが、現在、山々は単調な高層アパートの連なりによって完全に隠れてしまっている。しかし、この家は今もなお平穏な雰囲気を保ち、大好きなレコードとともに素敵な時を過ごすための空間と静寂を、その住人に与えている。チャンドヴァンカールは、50年近くかけて蓄積してきた人がうらやむほど大量のSP盤、LP盤のコレクションを有している人物なのだ。
 「ここにあるレコード盤1枚1枚に物語があるのです」とチャンドヴァンカールは語るが、こうした物語にはムンバイにある伝説的なフリー・マーケット、チョール・バザールに由来するものが多いことに、私は気がついた。一番気に入った話は、ゾノフォーン(Zonophone)社が1900年代初頭に製造した、アリ・バクシュというあまり知られてないシャハナイ(シャナイ、シェナイ)奏者の音楽を収録したSP盤にまつわるものだ。

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アリ・バクシュの演奏を収録したゾノフォーン社製SP
(写真:スレシュ・チャンドヴァンカール)


 チャンドヴァンカールはこのレコードに興味津々だった。後にこの楽器と同義となるほどの名手となった甥、ウスタッド・ビスミラ・カーンに技を伝えたバクシュと同一人物なのだろうか? このことをずっと知りたいと思っていたチャンドヴァンカールは、ビスミラ・カーンがコンサートを行なうためにムンバイにやって来ることを知ると、音楽家をやっている友人で、この名手とは知り合いという人物と即座に連絡を取って熱心に頼み込み、遂にカーン大先生への謁見が叶うことになった。



 幸運なことに、チャンドヴァンカールは会見の数日前にマイケル・キニアの新著『The Gramophone Company's Indian Recordings, 1908-1910』を入手したのだが、この本で自分が買ったバクシュのSP盤に関する情報をチェックして驚いた。確かに、このレコードに関する情報も載っていたのだが、キニアの調査では、アリ・バクシュはタリム・フサイン(もしくはホセイン)という音楽家の別名と記されていたのだ。ということは、この演奏家はあのアリ・バクシュとは同名異人なのだろうか?
 「私はこの発見については黙っていることにしました」とチャンドヴァンカールは語る。カーンとの会見の当日、彼は巨匠がムンバイに来た時には定宿としているバイクラのホテルに到着した。「カーン師匠が自分の服を洗濯するのを許してくれるホテルはここだけだったのです*」 謎のレコードと手でゼンマイを回す方式のレコード・プレイヤーを抱えて部屋に入ると、そこには祈りの後、バニヤンとルンギという姿でベッドに座ってくつろぎ、他のゲストとおしゃべりをしているカーンがいた。

* 高級ホテルではランドリー・サービスの利用を求められ、部屋の中に洗濯物を干すのは許されなかったので、巨匠となっても自分の服は自分で洗濯するのを好んでいたカーンは、そうすることが出来るよう、あえて安いホテルに宿泊していたのだそうです。(Scroll.in編集者の説明)


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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは機材をセットし、巨匠からOKの合図があった後、レコード盤の溝に針を置いた。シャハナイの引き締まった音が部屋を満たすと、巨匠の演奏を聞きに集まっていた人々からはざわめきが生じたのだが、カーンは目を閉じたまま、集中して聞いていた。3分の曲が終わった時も、カーンは何も言わず、ただ、裏面もかけてくれとだけ言った。チャンドヴァンカールはそれに応じ、2曲目を再生した。皆が巨匠の反応を待ち、部屋は静まりかえっていた。カーンはしばらく考えた後、顔を上げて言った。「Yeh hamare mamu nahin hain」(これは私の叔父ではない)
 チャンドヴァンカールはそういう回答だろうと思ってはいたが、悪魔の弁護人を演じた。「カバーにはアリ・バクシュと書いてありますと言ったのですが、カーンは語気を強めて「カバーが何て言ってるかは知らないが、この音楽からは1つも叔父の音が聞こえてこないね」って答えました」


 
 バドラプールにあるチャンドヴァンカールの自宅の壁には、伝説のシンガー、ガウハール・ジャーンの写真が飾ってあり、そのすぐ下にはレコードがあった。これにも物語があるのではないかと私は思い、質問した。実際、この写真とレコードには、チャンドヴァンカールの少年時代とレコードへの情熱の始まりまでさかのぼる物語があった。「叔父のひとりがゼンマイを手で回す方式の蓄音機を持っていたんですが、私はそれに触ることさえ許されませんでした」 チャンドヴァンカール少年は、遠くからこの機械を眺め、そこから流れてくる音を聞いて魅了されていたのだ。
 プネで小規模な紙のリサイクル業者をやっていた父親は、彼がレコードに興味を持っていることに気づき、廃品のレコードの買い取りも始めた。「父はキロ単位でレコードを買い取っていました。1キロあたり25パイサ(0.25ルピー)とかで。でも、小さな問題があったのです」 こうしたレコードを再生する蓄音機がなかったのだ。そこで、チャンドヴァンカール少年は壁に釘を打ち込んだ。「釘にひっかけたレコードを片方の手で回し、もう片方の手でピンを持ってレコード盤の溝に沿って動かしました。そうして出てきた音は、どんなにかすかなものでも聞いてやろうって思っていました」 息子の「狂気」を見た父親は、ちゃんとした蓄音機を買ってやることにした。
 物理学で修士号を取って、タタ基礎研究所で職を得て----「職に就いたのはこれが最初で、定年まで勤め上げました」----1976年にムンバイに引っ越す頃には、チャンドヴァンカールは1,000枚ほどのコレクションを抱えていた。「最初の数年間は下宿生活を送っていたのですが、その時もレコードを持って行きました」 彼はドンビヴリで借りた部屋に引っ越し、次に、コラバにあるタタ基礎研究所の職員宿舎に引っ越し、定年までそこで暮らした。その間もコレクションは増え続けた。

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チャンドヴァンカールのコレクションの中には《The Voyager Golden Record》の40周年記念リイシューもある。
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 殆どのコレクターと同様、チャンドヴァンカールも最初は自分ひとりでこの趣味に没頭していた。ところが、ある日「こんなことをやっているのは自分ひとりではないことがわかりました」 インドにおけるレコーディング黎明期のディスコグラフィーをまとめたオーストラリアの研究家、キニアによって、自分はもっと大きなコミュニティーの一部であるという認識はさらに深まり、より明確な方向性を得た。
 マラティで発行されている新聞に掲載された短い記事でキニアーについて読み、興味を抱いたチャンドヴァンカールは、新聞社に問い合わせて、オーストラリア人と連絡を取りたいとお願いしてみた。詳しい連絡先を教えてもらった彼は、キニアに手書きの手紙を送った。「返事が来るとは思っていなかった」ので、それが届いた時には驚喜した。
 数ヶ月後、キニアは本執筆用の調査のためにインドにやって来て、ボンベイではチャンドヴァンカール宅に滞在した。自宅にキニアが逗留してくれたのは、いろんな点で幸運だった。チャンドヴァンカールは若い頃からチョール・バザールに通い続けていたが、この一風変わったオーストラリア人のほうが自分よりこのエリアについて詳しく知っていたのだ。彼は笑いながら回想する。「キニアはチョール・バザールの私の知らない道全部を案内してくれました」
 しかし、キニアの最大の貢献はものの見方が大きく変化したことだった。「私が彼から学んだのは、レコードの収集には、音楽を聞いて、カバーやレーベルを眺める以上の意味があるということです」 キニアは、インド中のコレクターをひとつにまとめてインド・レコード・コレクター協会(Society of Indian Record Collectors)を設立したことでも重要な役割を果たした。「彼から「どうして皆で集まらないのですか?」って言われた時に、私は「私たちは敵同士なのに、どうして集まらなきゃいけないのですか?」と答えました。あの頃は、私たちは互いをそう思っていたからです」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 インド・レコード・コレクター協会の第1回ミーティングは、1990年6月にタタ基礎研究所の職員宿舎で開催され、キニアも出席した。最初はリスニング・セッションが開かれた。「ゲストに歌手や楽器の演奏家を招いたこともありましたが、殆どの場合、おしゃべりに興じていました。3時間のうち音楽を聞いたのは5、6曲だけで、それよりも、おしゃべりのほうが中心でした」 協会は『The Record News』という情報満載の会報の発行も開始した。編集長はチャンドヴァンカールだった。
 キニアと出会ったことが、チャンドヴァンカールのコレクター人生の最初の大きなターニング・ポイントだったが、次の進化のステップは約10年後に到来した。2001年に、音の記録の保存に関与している2つの大きな国際的組織----国際音声・視聴覚アーカイブ協会録音コレクション協会----が共同で大英図書館で大会を開くと聞いて、この貴重な機会に出席することにしたのだ。
 ロンドンで、自分がインドから来た唯一の大会参加者だとわかったチャンドヴァンカールは、この状況を最大限に活用して世界中のコレクターと会い、ネットワークと活動範囲を広げ、2012年に仕事を引退してからは、彼はこの種の会合には定期的に出席している。その結果、今では、チョール・バザールに行った時には、自分にとって興味のあるものだけでなく、他のコレクターにとって価値がありそうなものも拾っておくようになったという。「人を助けてあげたら、今度はこちらが助けてもらえるのです。私の考え方は完全に変わりました」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは世界中を旅しながら、自分以上に「クレイジー度」の高いコレクターとも出会った。子供のマーケット向けに作られたSP盤を専門に収集しているアメリカ人コレクターの自宅を訪問した話を、彼はしてくれた。ニューヨークで暮らす、88歳にしてまだまだ元気なこのコレクター氏の「ベッドルームが6室あるアパートメント」に入ると、彼がそれまでに苦労して収集した「25,000〜35,000枚のレコード」が生産国別に念入りに並んでいた。「このコレクションは将来どうなるのかと質問したのです。すると、自分が死んだら国会図書館に行きますという回答でした」
 「この言葉は私が取るべき方向を示していました」 インドにはこうした記録を保存する機関が殆どないこと、そして、インドにいるコレクター諸氏一般が高い意識に欠けていることを嘆きながら、チャンドヴァンカールは語った。「私は自分のコレクションをどこに渡したらいいのか知っています。しかし、殆どの人は知りません。彼らの持っているレコードはゴミ置き場に積み上げられることになるでしょう」


ブロードキャスト・レーベルからリリースされたケサルバイ・ケルカルの歌


 チャンドヴァンカールは現在まで20年近く、ヴィンテージ・レコードをデジタル化し、一般大衆がそれらを聞けるようにすることを目的とした複数のプロジェクトに、熱心に関与してきた。2004年には、ブロードキャスト(存続期間は短かったが、グラモフォン・カンパニーに対抗しようとしたイギリスのレコード・レーベル)がリリースしたレコードのデジタル化を行なうために、サンギート・ナタク・アカデミーから助成金を得て、そして、00年代の後半には、心臓切開手術を受けた後の病床の中でだが、大英図書館が消滅危惧アーカイヴ・プロジェクトの一環として助成金を出す計画があることを知った。大英図書館は最終的に、チャンドヴァンカールが手塩にかけて行なっているプロジェクトの2つに資金を提供した。
 2016年、大英図書館はそのウェブサイトに、ヤング・インディア・レコード・レーベル・コレクション、及び、オデオン・レーベル・インド亜大陸・レコーディング・コレクションとして掲載した。チャンドヴァンカールはその後も、サンギート・ナタク・アカデミーと文化省のために、HMV以外のさまざまな小規模レーベルがリリースしたレコードのデジタル化プロジェクトに取り組んだが、この2つの機関が大英図書館のような計らいをする様子は全くない。
 現在、チャンドヴァンカールは別のプロジェクトに取り組んでいるのだが、今回も資金を出しているのは大英図書館だ。「音の記録の収集を個人で行なっているインドのコレクターの調査」というタイトルのこのプロジェクトは、それまでに彼が行なってきたこととはかなり趣を異にしている。「これまではずっと機械で再生した音楽を聞いて、それを分析し、理解しようと努めてきました。レーベルやジャケットを眺めながら、過ぎ去った時代の人工遺物を扱ってきました。でも、今は生きている人間を調べてみたくなったのです」

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映画制作者、V・シャンタラムが創設したヤング・インディア・レーベル
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 つまり、チャンドヴァンカールは目を自分の内面に向けているのだ。彼が抱いている問いは、自分のような人間を収集へと駆り立てるものは、いったい何なのかということである。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じたのか? 何がそんなに魅力的で、75,000枚ものレコードを集めてしまうのか? 自分の死後、コレクションがどうなってしまうのかを考えずに、どうしてこんなに大量のレコードを集めてしまうのか? 私はこうした人間の心理を理解したいと思っています」
 チャンドヴァンカールがこのプロジェクトに取り組んで1年弱になるが、答えよりも、厄介な疑問のほうが数多く生じてしまっているようだ。「私のレコードに対する興味は、それに触ることを許されなかった子供時代に始まりました。今、私はレコードに触ることを許されていますが、その先には何があるのでしょうか? 情熱は私をどこに連れていこうとしてるのでしょうか?」
 彼の心を悩ませ続けているものが他にもある。「そもそも、こんなことをやっていて悟りがもたらされるのでしょうか? そう考えてしまうのは、多くのミュージシャンに言われたからです。自分が創造したり演奏したりしているものは本物の音楽ではありません。本物の音楽とは2つの音の間に存在する間{ま}なのです。そういう音楽を聞くことが出来た場合のみ、トランス状態になることが出来るのです、と。アミール・カーンが歌っている時には、少し長めの間{ま}がありましたが、その間{ま}の中にも音楽が存在していました」
 チャンドヴァンカールは音楽を聞いても楽しくない状態になってしまったのだろうか?
 「それは絶対にありません。音楽を楽しむのを止めてしまったことなどありませんが、たぶん、オーバードーズ{聞き過ぎ}なのでしょうね。私は人生の50年を音楽を楽しむことに費やしてきました。あらゆる種類の音楽を聞いてきました。カジュアルな音楽ファンではありません。でも、全ての音楽を聞くことは出来ません。そんなことは不可能ですよ。(少し間{ま}を置いて)いかなるジャンルでも、誰の人生でも、こういう問題は生じるのだと思います」




The original article "How a Mumbai scientist helped bring together India's obsessive record collectors" by Rudradeep Bhattacharjee
https://scroll.in/magazine/906432/how-a-mumbai-scientist-helped-bring-together-indias-obsessive-record-collectors?fbclid=IwAR16jO6Oh7h_ZRemsSx957EQNLEMFLr8pu1Ap-t-zZ5PJXF55pHoeXBriH4
Reprinted by permission


   

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2019年02月03日

インド、デリーのレコード屋に関する動画

 YouTubeでステキな動画を発見。





 私も2015〜2016年にこの2店に行きました。その時のレポートがこれ:
・インド盤を求めてリキシャに揺られ
http://heartofmine.seesaa.net/article/416437989.html
・デリーのレコード屋New Gramophone Houseでボブ・ディランのインド盤を発見
http://heartofmine.seesaa.net/article/436532643.html

 また行きたいなあ。
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2019年01月18日

娘の語るママ・キャス物語と自分の父親

 私もザ・ママス&ザ・パパスのメンバーの名前はジョン・フィリップスよりもママ・キャスのほうを最初に覚えました。ジョン・フィリップスについては「ミック・ジャガーとの日々:ヨーロッパ'73ミキシング秘話」も参考にしてください。





娘の語るママ・キャス物語と自分の父親

文:シーラ・ウェラー



 「太った娘{こ}」としてバンド活動をするのは簡単ではなかったが、キャス・エリオットの型破りのキャリアは我々の文化を揺さぶった。オーウェン・エリオット=クージェルは母親の努力奮闘と、自分の父親探しについて、マスコミに初めて語った。



 フォークロックをサイケデリック・カウンターカルチャー前夜の音楽に変えたのが、1965〜68年に活躍したポップ・グループ、ザ・ママス&ザ・パパスである。〈Monday, Monday〉や〈Go Where You Wanna Go〉、そして時代を代表する〈California Dreaming〉等のヒット曲で、彼らはアメリカが1960年代前半のしきたりをまだ完全には振り落としてない頃に、電波に砲撃を加える存在だった。女の子はゴーゴー・ブーツを穿き、男の子は初期ビートルズよりも髪を長く伸ばし始めていた。ザ・ママス&ザ・パパスのメンバーには、『スリーピー・ハローの伝説』に出てくるイカボット・クレーンみたいな、おかしな帽子をかぶった2人の男性(背の高いリーダー、ジョン・フィリップス、そして、テノールのデニー・ドハーティー)と、セクシーな唇を持ったブロンド美女(ミシェル・フィリップス)、そして、最も目を引く存在であるキャス・エリオットがいた。こんなルックスのグループは皆無だった。
 こんなサウンドのグループも皆無だった。デニーの心がうずくような無邪気な声と、キャスの年に似合わぬ渋めのアルトが、ひと昔前の学校の卒業記念パーティーで披露してもおかしくない緻密でクリーミーなハーモニーに興趣を添えている。彼らは自分のファースト・ネームの前にパパ、ママを置いて(これはキャスのアイデアだ)、内輪のジョークに満ちあふれた金持ちヒッピー・ファミリーの雰囲気をプンプンさせていた。
 ジョン・フィリップスはエゴが強く、人をコントロールしたがる性質から、自分がリーダーだという意識があった。ジョンは過去にもグループを作ったことがあり、軍隊経験を持ち、何か大きなことをやってやろうという精神があり、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルを立ち上げたメンバーのひとりでもあった。しかし、結成当初からはっきりとしていたのだが、ザ・ママス&ザ・パパスのスターは、一番最後に加入した人物、ママ・キャスだった。彼女は最もあり得ないやり方でスター街道を進んでいった。
 女性ポップ・シンガーは太ってちゃいけない、ブスじゃいけない。そんな子が芸能界で最もゴージャスなブロンド美人の隣に立つなんておこがましい。そんな厳しい時代の中で、ママ・キャスはデブとブスの両方だった。しかも、音楽産業が他の業界以上に男性社会だった時代に、ママ・キャスはリーダーのジョン・フィリップス以上のカリスマ性を発揮して、有名で注目される存在になった。ファンはママ・キャスの微量の皮肉を含むあたたかみのある声と、生まれつき持っていたと思しき度胸が大好きだった。「私の母が最も有名だったのは、見た目で一番わかりやすかったからだと思います」 ママ・キャスの娘であるオーウェン・エリオット=クージェル(51歳)はNextTribeに語った。

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ジョニ・ミッチェル、デヴィッド・クロスビー、エリック・クラプトンと一緒に写ってるのがママ・キャスの娘オーウェン。


スターらしくないスター

 ママ・キャスは自信たっぷりの人物だと思われていた。彼女はよく他人を励ましていた。そんな必要がなさそうな人をもだ。「会った瞬間から、キャスが大好きでした」とミシェル・フィリップスは、先頃、筆者に語った。「[歌う時には]いつも私を励ましてくれました。『頑張って! あなたならできる! 私にはそれがわかる! いつも私がついてるわ!』って。キャスは私を守ってくれました。ジョンに対しては、私の味方をして、きっぱりと言ってくれました。「ジョンにああいうふうにこき使われるままじゃいけないわ! あなたはミシェルよ! あんな奴を恐れちゃダメ!」って。私がジョンと会って結婚したのは高校生の頃だったので、とても不安に感じてたのです」 ミシェルはその後、ジャック・ニコルソンと恋仲になり、次はウォーレン・ビーティーと長年付き合い、結婚寸前までいっているので、そんなに繊細なタイプではなさそうだ。「[でも、ジョンからは]よく見くびられていたので、キャスは私が自尊心を持つことが出来るよう、助けてくれました。無理矢理にです」
 キャスはローレル・キャニオンのサロンの主で、アドバイスを与えるほうの人間だった。グレアム・ナッシュはイギリスから乗ってきた飛行機から降りるやいなや、ママ・キャスのところに相談に行った。ジョニ・ミッチェルもキャスの親友のひとりだった。クロスビー・スティルス&ナッシュはキャスの家で結成されたという説もある。ママ・キャスは皆から愛されており、屈辱的な痛みを抱えながらも、そういう権威を誇示していた。



 オーウェン・エリオット=クージェルは、これまで、自分の母親についてあまりマスコミに語ったことはなかったが、今やっと「ママの時代」が来たと感じている。オーウェンはキャス・エリオットを太った女性ポップスターの草分け的存在と見ている。「私のママがいなかったら、アデルのようなシンガーもいなかったでしょう。コメディーの世界でいうと、『サタデー・ナイト・ライヴ』のエイディー・ブライアントもいなかったでしょう」
 今日では、肥満女性には熱烈なファンが存在し、肥満女性を恥ずべき存在と見ることにマスコミも反対している。女優のガボレイ・シディベは大人気だし、クリッシー・メッツも、人気テレビドラマ『This Is Us 36歳、これから』で彼女が演じているケイト・ピアソンと同様、大きな自信と助言力のある女性だ。彼女のアドバイスに、誰もがハッと姿勢を正す。彼女は兄弟から頼られ、夫のトビーも彼女に心底惚れている状態だ。このドラマの言いたいことは「肥満はこの素晴らしい女性にとってマイナスにはならない。妊娠の期間もね。あしからず」である。加えて、有名なヨガ・インストラクターのデイナ・フォルセッティといった人々も、体を見せびらかす女性スポーツ界における「見た目」のパラダイムを変えた。こうした女性たち全ての先駆けとなったのがキャス・エリオットだと言えるだろう。
 体型コンプレックスをはねのけて女性ポップ・アイコンとなったことの他にも、キャスは、今日では許されているが、当時は許されていないことをやった。自分からシングル・マザーになることを選び、子供を自分ひとりで養うために働く母親にもなったのだ。
 「女手一つで逆境と闘って勝った人間です。時代を先取りしてました。キャスが50年前にやったことを、今の女性がするようになっています」とオーウェンは語る。現在、オーウェンは夫でレコード・プロデューサーのジャック・クージェルと2人の子供たち(ゾー(19歳)、ノア(16歳))と一緒にロサンゼルスで暮らしている。「思い返すと、ママは自ら手本となって、私や他の人々に教えたのだと思います。そんなことお前には出来ないよって誰かから言われても、そんなことはねのけろって」

ブロードウェイ

 キャス・エレン・ナオミ・コーエンはバルチモアで暮らす中流のユダヤ人家庭に生まれた。高校卒業の半年前に退学してニューヨークに行き、ブロードウェイの世界に挑戦したが、ミュージカル『I Can Get It For You Wholesale』のミセス・マーメルシュタイン役は、新進気鋭のユダヤ系のシンガー/女優のバーブラ・ストライザンドに奪われてしまった。バーブラも、スターになるのに正当派の美女である必要はないというルールを確立するのに貢献した人物だ。その後、キャスはマンハッタンのナイトクラブ、ザ・ビター・エンドのクローク係の仕事をしながら歌い、芸能関係者の注意を引こうと努力していた。コート用ハンガーとチップの25セント硬貨を扱いながら、キャスはこのクラブでフォーク・シンガーのデニー・ドハーティーに会い、「彼を酔いつぶさせたそうですよ」(オーウェン談)。
 キャスはドハーティーに報われない恋心を抱いて、ヴァージン諸島まで追いかけて行き、彼を説き伏せてこれから結成しようとしているグループの中に入れてもらった。「ジョン[・フィリップス]はこんなことをやりたいっていうはっきりとしたアイデアを持っていました。ピーター・ポール・マリーのようなグループです。ママはああいう[スレンダーな]女性のルックスには当てはまりませんでしたが…」とオーウェンは言う。しかし、才能と根気が体型に勝った。このグループは最初はザ・ニュー・ジャーニーメンと名乗っていたが、ジョンは後に(キャスのアイデアも加味して)もっとヒップでウィットに富み、魅力を内包した名前、ザ・ママス&ザ・パパスに変更した。
 「ママはThe Little Engine That Could(=諦めずに頑張る人)でした」とオーウェンは言う。「体重はママが一生苦しんだことでした。人からデブと思われ、デブと呼ばれて、常に侮辱され、傷ついていました。でも、その苦しみを口に出したことはありません。演奏する時には、その痛みを隠していました。でも、私にはわかります。それに苦しんでたって。子供の頃からおデブちゃんとからかわれ、その後の人生でも体重は心の傷でした。そのせいでブロードウェイ・ショウのオーディションに落ちたこともありました。ザ・ママス&ザ・パパスでカーネギー・ホールやハリウッド・ボウルに出演したというのに、ショウの後は、ひとりで家に帰り、寂しい晩を過ごしていたのです。他のメンバーはパートナーがいたのに」

肥満との戦い

 オーウェンも自分の体重については敏感に意識している。「私も30〜40ポンド太り過ぎてます。すぐに直す方法がないことはわかっています」 筆者は2006年に、『ヴァニティー・フェア』誌用にミシェル・フィリップスに関する記事を書く準備として、オーウェンと食事をしたのだが、その時は、元気そうに見えた。オーウェンは、親友かつ「心の姉妹{ソウル・シスター}」でもあるカーニー・ウィルソンが----3人グループ、ウィルソン・フィリップスのメンバー。ミシェル・フィリップスの娘、チャイナ・フィリップスも参加していた----肥満と戦い、バイパス手術等の処置まで行なうのを見ていた。今日、人権意識ははるかに進化したとはいえ『This Is Us 36歳、これから』みたいな状態ではない。実生活においては、「まだまだ、太っていると肩身が狭いわ」。
 キャスは25歳の時に、シングル・マザーになることを希望した。当時としては大胆な選択だ。ボヘミアン・サークルの中でもだ。「ママは他の何よりも私が欲しかったのです」とオーウェンは言う。「私は1966年夏にママのお腹の中にいたのです」 音楽系のマスコミがゴシップを書き立てる新しい時代のスターだったにもかかわらず、キャスは妊娠をうまく隠し通した(皮肉にも、彼女の太った体型が役に立った)。それだけでなく、赤ん坊の父親が誰なのかも、当時も、そして、その後の数十年間も隠してしまった。
 オーウェンは1967年4月に誕生した。「ママが私のために選んでくれた名前からして、愛すべき存在が欲しかったことは明らかです。私をオーウェンと名付けたのは、私がママだけのもの(her 'own')だったからです。ママからはオーウェンスキと呼ばれました。大きなベッドに座って、一緒にフットボールの試合を見ました。ママは選手たちに夢中になってました。「あのカワイイお尻を見てよ」ってよく言ってました。母性愛に満ちていました。母性の持つ取り柄について歌った曲〈Lady Love〉を録音してるんですが、オープニングでは「まだ赤ん坊の娘に捧げます」って言ってるんですよ」 この歌でママ・キャスは、愛しい娘さえいればどんな困難でも乗り越えられると歌っている。「私には絶対に手放すことの出来ない、大切な人を持っている。私を自由にしてくれるこの子がいる…この娘{こ}は心配だらけの私の心を癒すのに、タイミングよく産まれてくれた。今、私は絶対に手放すことの出来ない、大切な人を持っている」
 ザ・ママス&ザ・パパスでツアー活動をしていた時も、シングル・マザーとしての生活はストレスが多かったが、1968年にグループが解散してソロ・アーティストになってからは、なおさらだった。「私の幸せは100%がママの責任になりました」とオーウェンは語る。「私をベビーシッターに預けなければならず、私がその人になついてるのを見ると、心が痛んだそうです。あるベビーシッターは仕事を辞めてしまいました。私がママより自分のほうに良い受け答えをするのをママが気に病んでることがわかったからです」
 ママ・キャスはファンから愛されていたが、オーウェンは最近になって昔のバラエティー番組のビデオを見た時のことをこう話す。「たわいないものだったんだでしょうけど、ママがああいう太り過ぎに関する「冗談」を、いじられ役に徹して一緒に笑いながら堪え忍んでいたことを思うと、心が痛みました」 実際、「ママは断食ダイエットをしてました」 5日間水だけで暮らし、次の2日間はステーキを食べるといったことをやっていた。エスクワイア誌には、250ポンド(113kg)あった体重が170ポンド(77kg)まで減ったと語っている。これだけの体重を急激に落とすなると大量の筋肉を失うことになる。これは危険だ。
 急激な食事制限と過密スケジュールの結果、1974年4月に、ママ・キャスはジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショウ』のセットで倒れてしまい、その後にも入っていた仕事に影響が出ないことを願いながら、病院で治療を受けた。キャスは続けなければならなかった。自分の中にはいくつもの曲があり、金も稼ぐ必要があった。3カ月後、キャスはロンドン・パラディアムでコンサートを行った。彼女はヘッドラーナーで、1晩に2公演というスケジュールだった。一流の会場だったので、この瞬間が運命を左右するように感じられた。最初の晩はチケット売り切れになっていなかったので、観客を魅了し、良い評判を得るという大変な仕事となった。そして、キャスは見事にそれをやり遂げた。



 7月28日、パラディアムでの最後の晩に、彼女は客席を総立ちにさせた。カムバックのようだった。コンサートの直後に、彼女は7歳の娘には会えなくて寂しい旨の手紙を書き、次に、ロサンゼルスにいるミシェル・フィリップスには電話をかけて、かつて自信を持つよう励ました人物にコンサートの成功を伝えた。「大喜びしていましたよ」(ミシェル談) その晩、ママ・キャスはミック・ジャガー主催の大パーティーに出席したのだが、その後、なかなか眠りにつけなかった。
 翌日、キャスはホテルのスイートルームで心臓発作を起こした。断食ダイエットのせいで、心臓近くの脂肪組織を囲む筋肉が少なくなっていたのが原因だった。キャスは32歳の若さでこの世を去った。ローレル・キャニオンの音楽シーンと多数のファンが彼女の死を深く悼んだ。
 「祖母宅のダイニング・ルームのテーブルのところに座ってると、祖母から「あなたのお母さんはもう帰ってこないのよ」と言われたのを覚えてます。私は何が起こったのか理解できず、立ち上がってテーブルから離れました。私は長年に渡って、何度も認知行動療法を受けました。そして、自制心がいかにして子供を守るか知りました」
 オーウェンはキャスの妹、レアと暮らすことになった。当時、レアは、ジェイムズ・テイラーやジョニ・ミッチェルのバックでドラムを叩いていたラス・カンケルと結婚して、3歳の息子、ナタニエルがいた。
 「他にもたくさんのスターが眠っているロサンゼルスのマウント・シナイ・メモリアル・パークで葬式が済んだ後になってやっと、ママの死を実感しました。誰の車で一緒に帰りたいか、おばあちゃんか、レアおばちゃんか、って訊かれた時、事態を把握しました。新しい生活に慣れなきゃ。もうママはいないんだって。この後の身の振り方を決定しなければならない、とても悲しい、瞬間でした」

父親は誰なのか
 伯母のレアは、離婚した後、オーウェンとナタニエルを連れてハリウッドを離れて、マサチューセッツ州の伝統的でアカデミックな町、ノーザンプトンに居を移したので、オーウェンは子供時代の大半をここで送った。「ノーマン・ロックウェル的な(=アメリカの田舎の庶民が送るような)世界でした」 しかし、彼女が直面したロックウェル的でない問題の1つが「父親はいったい誰?」ということだった。知る者は誰もいないようだった。ママ・キャスはこの件を完全に秘密にしていた。恐らく、その機が来たら話すつもりだったのだろう。
 オーウェンは東海岸の高校を卒業した後、ロサンゼルスに戻ったが、彼女の中では「父親は誰か?」という疑問は消えていなかった。19歳の誕生日の晩に、ママ・キャスのかつてのバンドメイト、ミシェル、ジョン、そしてデニーがディナー・パーティーを開いてくれた。ロサンゼルスの煌めく夜景を見下ろすサンセット・ストリップの丘の上の日本食のレストランで、ミシェルは言った。「オーウェンのお父さんが誰なのか見つけてあげられなくてごめんなさい」 すると、その瞬間、デニーとジョンは、キミは知らないけど、オレたちは知ってたよなあという表情で互いを見た。男ふたりも20年間秘密を隠してきたのだ。
 父親はチャック・デイだと彼らは明かした。チャックはバンドのベース・プレイヤーだった。「デニーが言ったんだと思います」とオーウェンは語る。チャックを探そうと密かに計画したのはミシェルだった。彼女はアシスタントに頼んで、印税が待っています的なことをほのめかしながら、「チャック・デイ」を探していますという広告を『ミュージシャン』誌に載せた。「印税というのは父に姿を現してもらうための餌でした」とオーウェンは笑いながら語る。
 チャック・デイの友人から電話連絡があったので、広告の真の理由を告げ、オーウェンと父親の対面の場が設けられた。デイはベイエリアで暮らしていた。オーウェンがサンフランシスコに行くための航空券はミシェルが買ってくれた。「父はスウェーデンとスコットランドのハーフでした」とオーウェンは言う。体調も良好というわけではなかった(今はもう、この世にはいない)。父と娘の対面は「ぎこちなかったけど、感動はしました。この人から愛されてるとわかって、心を動かされました。でも、やっぱり、この人は知らないオジサンでした…。父親なんて必要ありませんでしたし。幼い頃はラス[・カンケル]がパパでした。私を抱きしめてくれて、父親としての仕事を全部こなしてくれました」
 ママ・キャスが太り過ぎを恥ずかしいことだとするような風潮にめげずに、才能に見合った成功を追求してスターになったのは正しいことだったと、オーウェンは感じている。そして、ママ・キャスがシングル・マザーとして自分を育てたのも正しいことだったと感じている。
 「ああいう母親の娘であることを誇りに思っています」とオーウェンは語る。オーウェンは短期間、シンガーとして活躍した後、現在は、ザ・ママス&ザ・パパスの音楽を再発する際の新しい契約を管理して、メンバー4人全員の子供、孫のためにグループの遺産を守っている。「理由は何であれ、苦しい日には、ママが「お前にはこれは出来ない。あれも無理だ」という意見を聞いても無視し、克服したことを思い出すことにしています。ママは私にとってはヒーローです」


The original article "Fat-Shaming, Single Motherhood: Mama Cass’ Daughter Shares the Untold Story" by Sheila Weller
https://nexttribe.com/cass-elliots-daughter/



   



posted by Saved at 13:25| Comment(0) | Psychedelic Rock | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月12日

グレイトフル・デッドのブートレッグLP:東海岸と西海岸

 今年はロックのブートレッグ50周年(それから、ポール・マッカートニー死亡説も)ですが、それを記念したイベントは何かあるのかな? ご存じでしたら教えてください。
 ブートレッグの歴史をまとめた本に、1995年に発売されたクリントン・ヘイリン著『The Great White Wonders: Story of Rock Bootlegs』があります。シェイクスピアが劇場での上演にこだわり、作品の書籍化には消極的だったので、勝手に出版する連中が現れた話や、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で1900年前後にシリンダー型蓄音機で非公式録音を行なってたスタッフがいたという逸話から始まる本書は、1996年には『Bootleg: The Secret History of the Other Recording Industry』、2003年には『Bootleg!: The Rise & Fall of the Secret Recording Industry』というタイトルで、2度、増補改訂がなされ、全体としては、初版時には存在していなかったネット経由の音源交換の黎明期までを網羅しています(自分用にKindleのフォーマットで勝手に邦訳版を作って持ってるんですが、紙の本として正式に出してくれる出版社ないかなあ?)。が、ヘイリンの趣味からははずれるグレイトフル・デッドに関する記述は、誠に残念ながら殆ど皆無。ファンによるコンサートの録音を解禁し、トレードされるテープが無料の宣伝となって人気爆発という話、かなり面白いんですけどね。今回はテープ・トレードが主流になる前の、グレイトフル・デッドのブートレッグ事情に関する記事を紹介します。

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このブログで紹介したグレイトフル・デッドの音源に関する記事

・グレイトフル・テーパーズ:ファンによるコンサート録音の歴史
http://heartofmine.seesaa.net/article/461500041.html
・コンサートの録音には猛反対だったグレイトフル・デッド
http://heartofmine.seesaa.net/article/451712660.html
・長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命
http://heartofmine.seesaa.net/article/395238664.html
・今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年
http://heartofmine.seesaa.net/article/446967757.html




グレイトフル・デッドのブートレッグLP:東海岸と西海岸

文:Corry342


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《The Grateful Dead At The Hollywood Palladium》

1971年8月6日ハリウッド・パラディアム公演。西海岸で出回っていた多くのデッドのブートレッグと同様、1枚組見開きジャケットのアルバムだった。


 グレイトフル・デッドは観客がショウを録音するのを許可していたことで名高く、このポリシーはインターネット文化の先駆と見られている。しかも、インターネットが文化になる以前から、それを行なっていたのだ。デッドがショウの録音を奨励していたからこそ、ファンの間では、出来るだけたくさんのショウを見るために何日も続けて数百マイル移動するといった情熱も生まれた。コンサートの録音に対する寛大な方針は、元をたどるとジェリー・ガルシアがブルーグラスをプレイしていた頃にさかのぼることが出来るあろうが、時間が経ってみると、意外なことに、これが成功の重要な鍵となったのだ。
 しかし、この話には裏がある。グレイトフル・デッド側は、ファンがコンサートを録音するのを許可し、音楽を自由に交換するのを奨励する以外の選択肢はないと感じた末に、やむなくそうした感もあるのだ。そして、グレイトフル・デッドのテープの売買は悪という意識が出来上がったおかげで、我々の殆どがデッドの未発表音源を最初はブートレッグLPで聞いていたという歴史的事実を、古株のデッドヘッズほど語らない。特に東海岸ではそうだ。ブートレッグ・レコードの売り上げは極少量だが、昔は、どんなバンドであっても、超熱心なファンはブートレッグを追い求めていたものであり、ブートレッグはグレイトフル・デッドの人気拡大にも大きな役割を果たしていた。特に東海岸の都市においてはそうだった。
 グレイトフル・デッドは出身こそ西海岸なのだが、出世は東海岸のほうで果たした。デッドヘッズ文化はまずは東海岸で根付き、その後、西に向かっていったのだ。西海岸では人気がなかったというのでは決してない。愛され方が違っていたのだ。サンフランシスコでは----オレゴン州でも----デッドは、少なくともジェリー・ガルシアは、すぐに戻って来るから、またコンサートで会えるという意識だったのだが、東海岸のグレイトフル・デッド・ファンにとっては、どの都市をとっても年に1、2度しかプレイしないし、必ずしも同じところに戻って来てはくれなかった。ということで、ショウをたくさん見るためのデッドヘッズの移動キャラヴァンが生まれたのだ。最初は小規模だったが、後に大規模になっていった。そうなる前の時代においても、長距離の旅をしてでもデッドのコンサートは見る価値があるとファンに思わせるのに、ブートレッグ・レコードが大きな役割を果たしていた。旅も最初は東海岸の現象だったのだ。


 ジェシ・ジャーノウ著『Heads: A Biography of Psychedelic America』(Da Capo Press, March 2016)は、グレイトフル・デッドを取り巻く地下経済----ブートレッグ・レコードを含む----を詳しく取り扱った最初の本である。


『Heads』

 1960年代後半にカセット・レコーダーというものが発売されたが、持っている者は殆どいなかった。とにもかくにも、カセットで録音したものは出回っていなかった。それに、カセット・レコーダーを持っていたとしても、未発表音源の入手の役には立たなかったであろう。録音する者は皆、オープンリール・レコーダーを使っており、当時のカセットは酷い音質だったからだ。しかし、オープンリール・レコーダーは使い勝手が悪く、カジュアルに音楽を聞くのには向いていなかった。だから、殆ど全てのロック・ファンはレコードのほうを好んだ。少数の熱心なテーパーがグレイトフル・デッドのコンサート会場にオープンリール・デッキを持ち込み----プロモーターも彼らを止める理由を持っていなかった----オーディエンス録音を始めた。こうしたテープはオーディオ・マニア仲間の間で共有され、一部の者はブートレッグ・レコードを作ろうと考えた。
 こうしたブートレッグの歴史は、特に東海岸では滅多に語られなくなってしまったのだが、この殆ど失われてしまった歴史に光を当てて豊かなコンテクストで語ったのが、2016年に発売されたジェシ・ジャーノウ著『Heads: A Biography of Psychedelic America』(Da Capo Press)だ。この本はグレイトフル・デッドを取り巻く地下経済の様子を詳しく紹介し、それが21世紀のオルタナティブなエコシステム的財政につながる道をいかにして作り出したかを述べている。当初は合法だったLSDの取引から物語は始まるが、それが地下に潜る頃には、今度はグレイトフル・デッドのブートレッグ市場が大きくなった。ジャーノウはブートレッグ・アルバムを誰が製造・販売していたのかに初めて着目した人物だ。私はジャーノウにメールで個人的に質問して、グレイトフル・デッドのブートレッグが東海岸で登場したのはいつ頃なのか訊いた。そして、次のような回答を得た:

 デッドのブートレッグLPが東海岸に現れ始めたのは、1969年末に『Rolling Stone』誌で《Great White Wonder》が取り沙汰されたよりも後の、1970〜71年です。デッドのブートレッグが本格的に出回るようになったのは1971年のことですが、バンドがアンダーグランドの存在からアメリカ中のアリーナで演奏するようなバンドになった時期と重なるのは、偶然ではありません。私はこの時期のデッド・ファンの世界を本当に面白いと感じています。バンドの人気が爆発しつつある頃で、1971年10月に《Skullfuck》がリリースされて「デッドヘッズ」という言葉が使われるようになるよりも前です。テープ・トレード等がデッドの世界で当たり前のこととなるよりも前です。デッド・フリークが彼らの呼称だった頃です。
 『East Village Other』(ニューヨークのアングラ紙)の記事によると、デッドのブートレッグは《Skullfuck》のリリース直前の夏に急増したようです。特に人気のあったショウは1970年10月4日のウィンターランド公演です。ジャニス・ジョップリンが亡くなった晩に行われていたショウを収録したブートレッグは、音源がFM放送で高音質だったのでよく売れました。FM放送を利用するというのはブートレッグ製造の極めて標準的な手順で、今日、アナログ・リバイバルという呼称とともにリリースされているブートレッグの新しい波でも同様です。ライヴ・コンサートの放送はデッドやその周辺のバンドが道を切り開いたようなものなので(貴殿も既に指摘していますね)、ブートレッグ現象のこの側面に関しては、ある意味、自業自得と言えます。黎明期のブートレッグの多くは白レーベルで、誰のどのコンサートなのかという情報は皆無でした。そうしたことを特定することが出来るようになったのは、ずっと後のことです。
 マーティー・ワインバーグが自家製ブートレッグLP第1号を世に出したのも、1971年の春か夏のことでした。マーティーはデッドのコンサートを高音質で録音していたテーパー第1号でもあります。彼はブロンクス・ハイスクール・オブ・サイエンスに通う天才少年で、10代にしてオーディオ工学研究会のメンバーでした。彼はモノラルのUHER製ポータブル・オープンリール・レコーダーをフィルモア・イーストにこっそり持ち込み、ガルシア側に立ちました。彼のテクニックは後のテーパーが開発した手法とはかなり違っていましたが、東海岸のデッドヘッズの間では彼のテープは伝説になりました。私の知り合いで、デッドのカバー・バンドの最古参、カヴァルリーのギタリストだったジョン・ジアスによると、マーティーのテープは素晴らしい音質だったということです。でも、マーティーの友人の殆どはオープンリール・デッキを持っていなかったので、1970年秋のコンサートからお気に入りのジャムを収録したレコードを製造したのです。ポートチェスターのキャピトル・シアター公演(一部はフィルモア・イースト公演)を収録したこのブートレッグは500枚製造され、半分は無料で配り、もう半分は売ったそうです。再プレスはしませんでしたが、ニューヨークの複数のラジオ局で放送され、マーティーはWBAIの番組『レイディオ・アンネイマブル』(ホストはボブ・ファス)にゲストとして招かれ、出演したこともありました。NYCで最もヒップなこの番組は、イッピーの最初の集合場所となり、ボブ・ディランも何度か電話で出演を果たしています。


 『Heads』は、グレイトフル・デッド文化のさまざまな要素が1つのネットワークになっていった様子を、見事にまとめている。デッドヘッズはある種の「コミュニティー」だったと何となく語る者が多数を占める中、その蓋を開けてネットワークの詳しい構造を見たのはジャーノウが初めてだ。

1960年代のブートレッグ・レコード

 1960年代のブートレッグの歴史は霧に覆われてはいるが、とても重要だ。最初のブートレッグは、ジャケットは白で、レコーディングに関する情報が何も記されていないものが殆どだった。フィーチャーされているのはボブ・ディランやローリング・ストーンズといった最も人気のあるアーティストのみで、ロンドンやニューヨーク、ロサンゼルスといった音楽が盛んな大都市にあるヒップな独立系のレコード店でしか手に入らなかった。しかし、ブートレッグは、こうしたレコードを手にすることの出来た少数のラッキーな者にとっては、天啓に等しいものだったのだ。世界で最も人気のあるソロのロック・アーティスト、ボブ・ディランは1966〜68年には殆ど何もリリースしていなかったのだが、ニューヨーク州ウッドストックの近所の小屋の地下室でザ・バンドとともにレコーディングしたラフだがパワフルな未発表曲の、10曲ほどのデモを収録したブートレッグが登場すると、皆が驚いた。ロック・ファンはそのような音楽が存在することを全く知らなかったからだ。このアルバム《Great White Wonder》は『Rolling Stone』誌でもレビューされた。
 《Great White Wonder》がどれだけ売れたかは誰も知らないが、正規盤だったらゴールド・レコードに認定されるほどだった(25万枚)と大げさな数字を言う者も多いが、実のところはその10分の1だっただろう。しかし、購入者は皆、大都市に住んでいる者ばっかりだったので、このレコードは大いに注目を浴びた。もともと違法なアルバムゆえ、他のブートレッガーがオリジナル盤の中身をパクるのを止める術{すべ}は皆無だったため、音質の劣化したコピー盤(タイトルとジャケットが違うこともあった)を掴まされた者もたくさんいた。この後、《Royal Albert Hall》や《Play Fucking Loud》等のさまざまなタイトルで、もっと驚きのブートレッグがリリースされた。このレコードはボブ・ディラン&ザ・ホークスが1966年にイギリスで行なったコンサートをプロの手でレコーディングしたもので、全盛期の若きアーティストによる8曲の名曲が収録されていた。ブートレッグの商売ではよくあることなのだが、アルバムはロイヤル・アルバート・ホール公演を謳っていたが、実際には数日前にマンチェスターのフリー・トレード・ホールで録音されたものだった。わざと嘘をつくことで音源提供者の特定は難しくなり、それが誰なのかは今日でも謎のままである。
 ブートレッグ・レコードの歴史は永遠の謎だった。こうした謎のレーベルを作った者は違法行為を行なっていただけでなく、アーティストから怒りを買ってもいたので、彼らが身を隠したままであるのも当然だった。しかし、ブートレッグ・アルバムは、こうした得体の知れないアルバムが入手可能な大都市で暮らすロック・ファンに大きな衝撃を与えた。レコード産業に与えた衝撃も大きかった。アーティストはリリースされるもののクオリティーを自ら管理出来ないことに懸念を表明し、演奏が荒かったり録音状態が良くなかったりするものがしばしば出てしまうことに困惑した。一方、レコード会社はアーティストとの契約関係をブートレッガーに蔑ろにされ、ブートレッガーがポピュラー音楽を配給して利益を得ることを脅威と感じた。ストーンズのライヴ・アルバムやボブ・ディランの《Basement Tapes》等、多くのアルバムが、ブートレッグの登場を未然に防いだり、既存のものを駆逐したりするためにリリースされた。
 ブートレッグの歴史のヴェールの向こう側の様子を多少暴いたのが、クリントン・ヘイリン著『The Great White Wonders: Story of Rock Bootlegs』(1995年)だった。ヘイリンはイギリスを代表するロック研究家で、1960年代に活躍した主なブートレッガーを何人か探しだし、ある特定のレコードの製造に関する興味深い話を語っているので、ロック・ファン必読の書と言える。しかし、ヘイリンひとりで全ての話を語れるわけではない。彼の話の中心はロンドンとロサンゼルスの(比較的)「大物」のブートレッガーたちだ。ヘイリンの語る歴史の中では、当然と言えば当然なのだが、Rubber Dubber、Trademark Of Quality、Swinging Pigといった有名ブートレッグ・レーベルが優先されている。最も注目され最も影響力のあったブートレッグ・レコーディングは、ローリング・ストーンズやボブ・ディランといったアーティストのものだったので、それが物語の重要な部分となっており、グレイトフル・デッドは殆ど関心が寄せられていない。デッドのブートレッグはヘイリンの語る歴史においては周辺的な存在となってしまっているのだ。しかし、幸いにも、ジャーノウの本は我々がこのギャップを埋めるのに大いに役立っている。

グレイトフル・デッドのブートレッグの東海岸での流通

 1970年頃のカリフォルニア州北部では、グレイトフル・デッドは、まだまだ比較的少数だが熱狂的なファンに愛されていたのだが、サンフランシスコ・エリアのデッドヘッズはグレイトフル・デッドが数ヶ月おきにコンサートを行なってくれるのに慣れていた。デッドのコンサートがない間も、ニュー・ライダーズかガルシア/サンダーズを小さい会場で見ることが出来たので、ベイエリアで暮らすファンはもっとたくさんのデッドのショウを見ようと気苦労することはなかった。間もなく次のショウがあることはわかっていたからだ。
 しかし、東海岸では事情は異なっていた。《Workingman's Dead》《American Beauty》のリリース、及び、間断なく行なうツアー活動のおかげで、デッドは北東部でも人気バンドになった。しかし、ブルックリンやケンブリッジ、プリンストンのファンにとっては、デッドがいつ再び来てくれるのかも、以前プレイした会場で再びプレイしてくれるのかも定かではなかった。なので、デッドのショウの「オッカケ」は西海岸ではなく、まずは東海岸で始まったことなのだ。同時に、東海岸の新しいデッド・ファンはグレイトフル・デッドの音楽を、手段は選ばず、もっとたくさん欲しがった。記憶のはっきりしている人々なら、デッドの音楽をどうやって手に入れたかを覚えているだろう。ブートレッグLPによってだ。
 デッドのアンダーグランド・テープの文化が「音楽は自由に交換されるべし」というスローガンとともに定着したのは1970年代半ばだったが、以来、我々はそうした需要がどのようにして高まったのかを忘れている。まず、人々はカセットデッキを導入する以前には、ブートレッグ・レコードを買っていたのだ。これが意味しているのは、デッドもワーナー・ブラザーズもこうしたレコードの売り上げから利益を得ていないということである。ブートレッグを購入していた者の殆どは、数年後にはテープ・コレクターになっているので、ジャーノウの取材を受けた者は皆、自分史を語る際にはこうした時代があったことも正直に述べている。こうした失われた時代を重大な時期として捉えているのが、ジャーノウの調査とその著書なのだ。デッドのブートレッグ・アルバムという種がなかったら、アンダーグラウンドなテープ・ネットワークもなかったであろう。サイケデリックな地下経済全体が、全く異なる様相を呈していたことだろう。ジャーノウによると、デッドの初期のファンは次のところでブートレッグを手に入れていたらしい:

 一部のレコード店では、仕入係がコネクションを持っていました。多くの場合、スーツケースや車のトランクから現物を取り出して、という形の流通で、確固たる配給システムはなかったと思います。なので、場所は極めて限られていたでしょう。ニューヨークでは、時々、コンサート会場の外で売られていました。ゲイリー・ランバートの話によると、マンハッタンの2番街のフィルモア・イーストから道を渡ったところでブートレッグが売られているのを見たのが、彼のブート初体験だったそうです。グレイトフル・デッドのテーピングを始めた別の人物、ジェリー・ムーアの場合、コンサートの録音を始めようと思い立ったのは、ブートレッグのディーラーがグリニッジ・ヴィレッジのある片隅にいると聞いて、ブロンクスからわざわざ出向いたものの、その日はそこにいなかったので超がっかりしたからだそうです。それで、自分でショウの録音を始めたのだとか。
 ブートレッグを入手するには郵送という手もありました。私の知ってるところは『Dead In Words』です。これはノース・カロライナで発行されていたグレイトフル・デッドのファンジン第1号で、『Dead Relix』より1年ほど早く出ていたものです。いくつかあったブートレッグ専門誌の1つでした。ディラン専門のもの、ビートルズ専門のものもありました。後にグレイトフル・デッドのテープの有名トレーダーになって、バンドのテープ庫の管理人にまでなったディック・ラトヴァラも、『Dead In Words』誌を通して彼にとって初となるデッドのライヴ・テープを手に入れたんです。その後、ジェリー・ムーアとレス・キッペルがテープ・クラブ「Dead Relix」を作り、1973年には『Rolling Stone』誌に取り上げられました。そして、1974年後半に雑誌『Dead Relix』を創刊し、フリーのテープ・トレードという概念を全国に広め始めたのです。


 ジャーノウの調査でも、アナログ時代にグレイトフル・デッドのブートレッガーが何人いたのか不明である。
 
 今となっては数を推測する術はありません。資料も断片的にしかなく、誰が何を作っていたのかは突き止めるのは困難です。中にはデッドヘッズが作ったものもあるようですが、多くの場合、曲のタイトルが間違っていたり、全くなかったりします。それに、ブートレッグは好まれていない形態のデッドヘッズ・フォーク・アートなのです。好ましい形態というものがあればの話ですが。私は、白レーベルのブートレッグに、以前の持ち主がたくさんのイラストや曲目を描き込んだものを見つけるのが好きです。このサイトにはブートレッグのカタログがあります。下ごしらえのレベルで、リリース年は極めて曖昧なのですが。
http://deadboots.qwattro.com/ [2019/1/12の時点では存在しないページ]


 ブートレッガー同士のつながりはあったのか? ひとりでやっていたのか?

 両方です。マーティー・ワインバーグにインタビューしたところ、彼はコンサート会場の外でブートレッグLPを売ってる輩は見たことないって言ってました。でも、彼も見に行ってたいくつかのショウで、そういう輩がいたことは確かです。『East Village Other』紙の記事によると、イッピーとつながっていて、東海岸でブートレッグを製造しているグループがあったようです。なので、互いに知り合いだったでしょう。私にはそれ以上のことはわかりませんが、これはいい記事です。コメント欄にはLightIntoAshesという人物による優れた注釈が付いています。
http://deadsources.blogspot.com/2013/11/august-26-1971-bootleg-battle.html


 グレイトフル・デッドのブートレッグLPに関するジャーノウのユニークな考察は、『Heads』に書かれているたくさんの優れた洞察の1つに過ぎない。ジャーノウは、語られるのことの多い物語や昔のジャーナリズムをそのまま紹介するのではなく、当時のシーンにかかわっていたさまざまな当事者を追跡取材しており、その分野はブートレッグ製造だけに限らない。『Heads』において、シーンの前提とされているのは、地下経済の支点の位置にいたのがグレイトフル・デッドだったということである。最初はLSD、次はブートレッグ・アルバム、次はテープ、次はTシャツ、そして次が、駐車場に出現する蚤の市「シェイクダウン・ストリート」になっていったのだ。こうした完全に未知の領域を上手に道案内してくれるジャーノウ著『Heads』は、どんなに推薦してもし足りない。この本は、多くのグレイトフル・デッドやデッドヘッズに関する「陳腐で当たり前な話」をさまざまな種類の事実とフィクションに分類している。まさにデッドヘッズ必携の本だ。

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 私が初めてブートレッグを買ったのは、パロアルトのダウンタウンのワールド・インドア・レコード(405 Kipling at Lytton)でだ。この広告で宣伝されているのはジミ・ヘンドリクスのレコード。



北カリフォルニアでのグレイトフル・デッドのブートレッグ

 西海岸では事情はいくぶん異なっていたのだが、カリフォルニアにはジャーノウのような人物はいないので、私が自分の知ってるなけなしのことを話すしかあるまい。1970年代前半、私はブートレッグLPをよく買っていた。グレイトフル・デッドの非公式リリースを入手出来るところはこの方法以外にはなかったと断言することが出来る。大学に通うようになると何人かと出会い、ネットワークの中に顔をつっこみ始めたが、最初の頃は自分ひとりだけだった。手書き文字のジャケット、もしくは、何も書かれてない白いジャケットの謎のアルバムは、私にとっては新しい秘密の世界への唯一の入り口だったのだ。
 高校の友人は、兄が買ったボブ・ディランのブートレッグを持っていた。後に《Bob Dylan Live 1966》として正規にリリースされた(わざと、ロイヤル・アルバート・ホール公演のものとして「リリース」された)このブートレッグのおかげで、私のディランの理解が爆発的に向上したので、他のアーティストにもこうした謎のレコーディングがあるのではないか?と考えないではいられなかった。
 ヘイリンはいくつかのアメリカ製ブートレッグ・アルバムの謎に満ちた誕生と、南カリフォルニアを拠点としていた2人の重要人物について詳しく語っている。この2人の重要人物とは「ダブ」と「ケン」だ(あれから20年も経っており、彼らの本名はネットを調べればすぐに出てくる)。ダブとケンはかの有名な《Great White Wonder》を製造し、ダブはローリング・ストーンズの《LiveR Than You'll Ever Be》の製造に関与した。ストーンズがデッドのPAを使って行なった1969年11月9日のオークランド・コロシアム公演、夜の部を録音したのはダブだ。1969年の終わりに、ダブとケンはチームを組んで、史上初のブートレッグ「レーベル」、Trademark Of Quality(TMQという略称も有名だ)を作った。Trademark Of Qualityは首尾一貫してさまざまなグループのハイクオリティーのレコーディングを世に出し、不透明極まりないブートレッグ業界においては、まさに品質の商標だった。
 友人が持っていたディランのブートレッグを見た後、常に注意を怠らないようにしていた私は、1974年前半に、遂に、パロアルトとバークリーでそういう店を見つけた。パロアルトには独立系のレコード店があり、ブートレッグは「輸入盤」のセクションにあった。それらがイギリスからの輸入品でないことは明らかだったが、そこに存在することで経営者にはささやかな「いいわけ」が与えられていた。一方、バークレー最大かつ最良の独立系レコード店、ラスプーチンズでは、ブートレッグは「中古盤」セクションに入っていた。多くの場合、明らかに中古の品ではなかったが、そこにあることで店にはある種の「いいわけ」が与えられていた。正規盤の新品が4〜5ドルだった時代に、値段が3ドル前後のブートレッグは魅力的な商品だった。
 ブートレッグの困った点は、特にグレイトフル・デッドのブートレッグの場合、中身が何かを特定するのが大変だったことだ。「ジャケット・アート」があったとしても、それは手書き文字の場合が多く、しかも、「Grateful Dead Live」のようなことしか記されていなかったので、あまり役には立たなかった。曲目が載っていることもあったが、こちらもあまり役には立たなかった。例えば、グレイトフル・デッドの歌で「We Can Share」って何?という場合なら、〈Jack Straw〉かな、と推測することが出来よう。しかし、「Only Love Can Fill」や「I Wash My Hands」となると困ってしまう。どんなブートレッグにせよ、購入にはリスクの要素が存在する。それがミステリアスな魅力を増やしていることも確かなのだが…。
 他にも、蚤の市(「スワップミート」とも呼ばれている)等でもブートレッグが入手可能だったらしいが、当時はそのようなものの存在を私は知らなかった。ビル・グレアムが仕切っているデッドのコンサートの会場外では、ブートレッグが売られているのは見たことはない。

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《The Grateful Dead Live At Fillmore West》

 グレイトフル・デッドのブートレッグの中で、比較的いつでも入手可能だったアルバムがあった。ジャケットが付いていて、曲目も正確で、しかも、音質は抜群だった。何年も経った後なのだが、このブートレッグがTrademark Of Qualityがリリースしたものだとわかった時も、特には驚かなかった。この2枚組アルバムは、1971年7月2日に開催されたフィルモア・ウェスト閉館記念公演でのグレイトフル・デッドの演奏をほぼ完全収録したものだった。TMQの場合、KSAN/KSFXの放送ではなく、KMET-fmの生中継を音源としていたのだが、高音質だった。スペイシーなカバー曲も収録しているこのアルバムは、デッドのもっとも有名なブートレッグの1つであり続けている。私にとっては超重要アルバムだった。異なる曲、異なるヴァージョンからなる別の宇宙が、音源情報も正確な状態で記録されていたからだ。カセットがどういうものなのかを知る前に、カセット・トレードで欲しい物がこうして決まっていったのだ。
 しかし、グレイトフル・デッドのブートレッグは他にもたくさんあったが、中身の詳細は明らかではない。それらは考古学的には謎のままで、いわば隠された世界のミステリアスな護符みたいな存在である。しかも、真の本質を知る手がかりは殆どない。そういうデッドのブートレッグは、2つのカテゴリーに分類することが出来るようだった。ひとつは、白ジャケットにタイトルがステンシル印刷され、レーベルは曲名がいくつか書いてあるような代物だ。もうひとつは、見開きジャケットになっているものだ。1枚組であっても、「見開きジャケット」のアルバムにはタイトルとアートワーク、写真がついていた。今日、そうしたアルバムを見ると、使用されている写真は全部、1971年に撮影された同じフィルム・ロールのものだとわかるが、もちろん、当時はわからなかった。私が「見開きジャケット」のアルバムが好きだったのは、ジャケットに書かれている情報が多かったからだ。それに、予算の限られているティーンエイジャーにとっては、良いものを掴む公算が高いからだ。今日、さまざまな情報から判断すると、グレイトフル・デッドの「見開きジャケット」ブートレッグは西海岸の現象だったようだ。少なくとも、グレイトフル・デッドの「見開きジャケット」ブートレッグは、流通している他のブートレッグLPとは別に製造されたもののようだ。他のバンドにはそうした作り方のアルバムは存在しないからだ。

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 西海岸の「見開きジャケット」仕様のデッドのブートレッグの最もよく見かける最高の例は《Hollywood Palladium》と呼ばれているアルバムだ。ジャケットに記されているクレジットは極めて正確で、立派なアイテムとなっている。このアルバムに収録されているのは1971年8月6日のハリウッド・パラディアム公演で、〈St. Stephen〉の名演奏をフィーチャーしている。《Live/Dead》収録曲をオルガン抜きで演奏している名演聞いて、私は魅了された。オリジナル・リリースではオルガンは必要不可欠のように感じていたので、なおさらだった。それに加えて、オーティス・レディングのナンバー〈Hard To Handle〉の熱いバージョンも収録されている。これは《Bear's Choice》のバージョンよりはるかに優れている(私は《Bear's Choice》を聞いた後にこのブートレッグを買ったのだが、いきなりブートレッグ・バージョンを聞いたとしたら、さぞかし驚きだったに違いない)。
 さらに驚きなのは、曲と曲の間にボブ・ウィアがステージで発した言葉だ。テーパーに対して、マイクがステージに近過ぎるので、良い音質で録音出来ないぞと言っているのだ。グレイトフル・デッドのメンバーが、非公式的ながらも、ブートレッガーの仕事を認め、アドバイスを与えているのである。ウィアの真意はわからないが、これはグレイトフル・デッドがブートレッガーに与えた祝福の言葉のようにも受け取ることが出来よう。伝説によると、ウィアに声をかけられたテーパーは、このレコードの音源となった有名なオーディエンス・テープを録音した人物ではないということだが、自宅のベッドルームで何度もこのLPを聞いてる間は、そんなことは知らなかった。このショウは《Road Trips Vol 1, #3》としてリリースされたが、ある年齢以上の者にとっては、パラディアム公演といったら〈St. Stephen〉と〈Hard To Handle〉に尽き、溝がすり減るほどレコードを聞いたものだった。

 

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《The Grateful Dead Hollywood Palladium I》(TMOQ 71064)
 1971年8月6日のハリウッド・パラディアム公演を収録したものとしては、これがオリジナルかもしれない。私はこのLPは聞いたことがないのだが…。


 《Hollywood Palladium》アルバムはいろんなジャケットで登場しており、全部が同一のブートレッガーによって製造されたものとは言えないだろう。恐らく、カオス状態の業界ゆえ、コピー盤も存在するはずだ。しかし、証拠によると、アルバムの最初のバージョンはケンのTrademark Of Qualityが製造したもののようだ。何しろ、高音質のオーディエンス・テープが目立った特徴なので、そう考えてもハズレではないだろう。最初に出た《Palladium》がTMQが作ったものだとしたら、1970年代前半に、グレイトフル・デッドの西海岸ブートレッグをカルフォルニアのブートレッグ業界のメインストリームの中に置いたのは、このアルバムだ。
 もちろん、他にもたくさんのブートレッグがあるが、その多くは、'71年7月2日フィルモア・イースト公演や、パシフィカ・レイディオ(KPFA、WBAIなど)で全国的に放送された70年5月2日ビンガムトン公演など、既に存在するテープの別バージョンだ。白ジャケットのブートレッグを手に入れて、そこに入ってる〈Dancing In The Street〉が既に持っているものだったりした時にはガッカリだったものだが、良い点もあった。数十年間に渡って、パシフィカ放送分にニュー・ライダーズのセットも含まれていたのを知っていたのは、音質は悪いのだが、そのブートレッグを持っていたからなのだ。
 ニュー・ライダーズの見開きジャケット・ブートレッグもあった。私はビンガムトン公演を収録したブートレッグ、1971年の大晦日公演、デッドのメンバーがゲスト出演した1973年3月18日のフェルト・フォーラム公演(WNEW-fmで放送された)のブートレッグも持っていた。ジェリーがバンジョーで参加しているアコースティック・ゴスペル・セットと、ウィア、キース&ドナ、ガルシアとランブリン・ジャック・エリオットのゲスト参加をフィーチャーしたこの2枚組アルバムも、私に秘密の世界を垣間見せてくれたのだ。テーパーの世界が存在することは殆ど知らなかったが、それが私の前に現れた時への準備は既に出来ていた。

The Amazing Kornyfone Record Label (TAKRL) と《Make Believe Ballroom》

 1970年代中盤には、私には「西海岸ブートレッグ」や「東海岸ブートレッグ」という認識は殆どなく、ブートレッグはレコード店にある変なレコードくらいにしか思っていなかった。それでもなお、いくつかのパターンがあった。あちこちでよく見かける「レーベル」があることに気づいてはいた。私にとってブートレッグは未公認音源を手に入れる唯一のルートであり、デッドの他にも、いろんなグループのブートレッグを集めていたのだが、1975年前半に、ブートレッグ店に新顔が登場していることに気づき始めた。白ジャケットだが、紙が挿入されており、そういうアルバムは皆、The Amazing Kornyfone Record Labelという名前を名乗っていた。
 通称TAKRLは、理想的なブートレッグ・レーベルだった。ヘイリンによると、TAKRL(及び、いくつかの関連レーベル)はTMQのケンの独創的な産物だった。本拠地こそ南カリフォルニアだったが、TAKRLレコード私が欲しいもの全てを供給してくれた:

・TAKRLのアルバムはFMやボードといった優れた音源から作られている。
・TAKRLのアルバムはレコーディングが行なわれた日付等を詳しく正確に記している。
・TAKRLのアルバムは最もカッコいい、最も魅力的な音楽を中心にリリースしている。人気のグループが大ヒット曲を機械的に演奏しているライヴ・テープを単に焼き直しているのとは違う。

 私や友人が持っていたTAKRLの名盤の中でも、ボブ・ディランの《Blood On The Tracks》のアウトテイクを収録したアルバムは《Royal Albert Hall》並の驚きだった。バッファロー・スプリングフィールドのアウトテイクを収録したアルバムには、数々の驚きのトラックと並んで〈Bluebird〉のロング・バージョンも入っていた。リトル・フィートのライヴを収録したブートレッグもあった。噂によると、ローウェル・ジョージ本人がミックスしたものらしかった。当時のリトル・フィートは、人気の点ではまだ、ナイトクラブならかろうじていっぱいにすることが出来る程度だったが、ヒップでクールなバンドだった。TAKRLのブートレッグにはジギー・スターダスト&ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアム公演のものもあった。当時は、彼らはアメリカでは人気の出る前の、非常にエキゾチックなイギリスのバンドだった。
 そんな中で、TAKRLブートレッグの一番のお気に入りが1975年後半にリリースされたのだ。グレイトフル・デッドの1975年8月13日、グレイト・アメリカン・ミュージック・ホール公演は、ショウが行なわれた数週間後に、ファイナル・セット以外の全セットがKSAN(サンフランシスコ)、KMET(ロサンゼルス)、WNEW(ニューヨーク)等で放送されたのだ(恐らく、他の都市でも)。郊外にある自宅のベッドルームでグレイトフル・デッドの復帰コンサートを聞くのは、カレッジに進学する直前の私には電撃的な体験だった。そして、その年の年末には、TAKRL製の素晴らしいブートレッグがラスプーチンズに入荷した。このグレイト・アメリカン・ミュージック・ホール公演を収めた《Make Believe Ballroom》というタイトルの2枚組アルバムだ。この頃、私は学生寮でテープを持っている人物と出会い、別の宇宙があることを知ったのだが、そこにアクセスすることは出来ないでいた。しかし、《Make Believe Ballroom》のおかげで、ラジオで聞いたコンサートを何度も繰り返し聞くことが出来た。これこそまさに、ファンが求めていたものだった。《Make Believe Ballroom》が多くのなりたてのデッドヘッズに愛され、当時、盛んにトレードされている音源だったことを、私は知っている。
 1970年代後半は、ブートレッグがまだまだ幅を利かせていたが、デッドヘッズの間ではカセットがそれに取って代わりつつあるようだった。私も数年も経たないうちにカセット・デッキを手に入れ、もはやブートレッグ・アルバムを集める必要はなくなった。見開きジャケットを特色とした西海岸のブートレッガーは完全に消え去っていた。東海岸のデッドヘッズの間で何があったのかはジャーノウの本が説明している。ケンとTAKRLも1970年代後半には(ヘイリンによると)目立つような活動はしなくなってしまった。ブルース・スプリングスティーン周辺等ではブートレッグ・ブームはあったが、グレイトフル・デッドの世界はテープのほうに移行していた。デッドのライヴ・テープは売ってはならぬという「総意」が出来上がると、この禁止ルールが出来たのはブートレッグLPの流通が原因であるのに、この非公式音源流通のシーンが出来るきっかけを作ったのはブートレッグだったということを、我々は都合良く忘れてしまったのだ。
 ブートレッグLPは限界の多いメディアだった。アーティストにとって不当で、著作権所有者にも不当だった。製造には金がかかるので、コピーを作る側がその費用を負担するのは無理だった。私も、他人が創造したものを誰もが許可なく売っていいとは思っていない。少なくとも、現代の著作権法の範囲内では。殆どのデッドヘッズも同意見だろう。しかし、ある年齢以上の者は、音源トレードのネットワークがまだ存在せず、白ジャケットに手書き文字で何か書いてある謎のレコードの誘惑が魔法の世界への唯一の入り口だった時代を覚えている。今はそれを認めていなくてもだ。




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2018年12月07日

Feis Liverpool 2019年も開催決定

 気が早いですが、もう来年の夏の話です。今年の7月7日(リンゴ・スターの誕生日)にリヴァプールのピア(埠頭)で行なわれて大盛況だったFeis Liverpoolですが、来年も行なわれるようです。アイルランドからの移民の最も多い都市ということで、リヴァプールで行なわれることに意義があるイベントなんだそうですが、2回目も場所は今年と同じピア(リヴァプール博物館のもうちょっと奥)。今度は7月6日(土)です。昨日、早期申し込み割引チケットの案内メールが届きました。まだ出演者は発表になってませんが、チケット発売はもう始まってます。私は来年7月のその頃は近所なんだけど別の国にいることになりそうなので、こっちには行きませんが、今年の盛況ぶりを知ってこのイベントが気になってる方のために、一言書いておこうと思います。

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 第1回Feis Liverpoolの開催が発表になったのは今年の2月でした。その時点でヴァン・モリソンやホットハウス・フラワーズ、チーフタンズ、イメルダ・メイといった主だった出演者や、最後にオールスター・セッションが行なわれることは発表になっており、オンラインでのチケット発売は2月14日午前10時(日本では+9時間)に開始。普通のGAのチケットと、椅子のある特別エリアで見れて、バックステージにも入れるというVIPチケットがあったので、どうせならってことで後者を発売日に購入(VIPチケットはすぐには売り切れず、普通のGAチケットはぎりぎりまで売ってました)。チケットはダウンロードして、プリントアウトして持参。facebook等で最新情報が流れてくるたびに、当日券は発売しないと再三再四書いてあり、当日もチケット発売のブースは、少なくとも私の視界には入りませんでした。
 予定時間の午前11時を15分ほど過ぎた頃にゲートがオープン。私はまっすぐVIPエリアに行って傘付きテーブル席を押さえて、のんびり涼みながら開演を待つことに。ステージの真ん前は一般エリアで、VIPエリアは左スピーカーよりもさらに左のマージー川沿いにありました。この時点で入れば、一般エリアのステージの真ん前の最前列は楽勝でゲットできましたが、私は強い日差しの下でフライパンの中のチキンの状態になるのを避け、傘の下を選びました。

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[11時ちょい過ぎのVIPエリア]


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[チーフタンズはこんな角度から見ました]


 一般的に夏のイギリスは、気温は日本と比べたらそんなに高くありませんが、日差しの中に含まれる光線の要素が日本とは違うようで(恐らく紫外線が異常に強いんだといます)、無防備状態だと15分くらい外に出るだけで目は充血。サングラスは欠かせません。夕方まで日傘の下にいましたが、袖のない腕の部分や手の甲は日に焼け、小さな水膨れのポツポツが多数できてしまいました(今、やっと肌の色が元にもどりつつあります)。今年は異常気象で、6月頃から日照り続きだったようで、当初は原則として「飲み物持ち込み禁止」でしたが、前日には「快晴が予想されるので水は持参のこと」というお触れが出ました。

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 VIPエリアはどこが特別かというと、
(1) 傘つきのテーブルがある
(2) 一段高いところに設置された椅子席がある
(3) 飲み物のブースが混雑してない
(4) トイレも混雑してない
(5) バックステージエリアに入れる
という点でした。ゆっくり見れるという点で(1)(2)はありがたいですが、このエリアはステージの真ん前ではなく、かなり横方向から見ることになります。(3)(4)は快適。でも、ハンバーガーやホットドッグ、フィッシュ&チップスといった食べ物のブースはなし。(5)に関しては、ホットハウス・フラワーズの時に試しにバックステージ・エリアをウロウロしましたが、まさに「裏」という感じのところで、機材があるだけでした。ミュージシャンのたまり場はすぐとなりのホテルだったのでしょう。日陰だったらフェリー乗り場のほうにもあったし、(3)(4)以外ではあまり得しなかったので、普通のGAチケットで良かったかなあという感じです。でも、トイレのことを考えると、やっぱりVIPチケットかなあ。GAの人用のトイレは常に長蛇の列だったので。

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[この日はビートルズの銅像は柵で囲まれてましたが、ジョンの首にはなぜかスウェーデン国旗のマフラーが]


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[Feis Liverpool 2018タイムテーブル]


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[入り口で腕輪を巻かれる]


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[サード・ステージ。ステージはドックの向こう、客席はこっち]


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[セカンド・ステージ。こっちは若手が多い]


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[VIPエリアの椅子席からの視界]


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[前々日の準備中の様子]


 ホットハウス・フラワーズの演奏中にチーズバーガーとコーヒーで腹ごしらえをして、フォイ・ヴァンスの頃からステージ前方に向かいました。ギューギュー状態ではないので、演奏が終了する頃にはど真ん中の前から3人目くらいまで難なく移動。日差しも徐々に弱まってきて、ステージ前は完全に日陰に入ってます。



 チーフタンズの頃から徐々にステージの進行が遅れ始めており、イメルダ・メイは1時間遅れで登場かと思ったら、演奏順の変更のアナウンスがあり、ヴァン・モリソンが先に演奏し(バックステージで駄々をこねたのでしょう。ヴァンスは自分のセットの時に「フェスなんだから、少しくらいの遅れがなんだよ」なんて発言をしてました)、次にイメルダが登場することになりました。早めにステージ前まで来ていてラッキー。チビ、ハゲ、デブの3重苦にプラスして、常に不機嫌、音楽しかいいところがない、アメリカまではよく行くのに日本には全然来てくれないからこっちから見に行くしかないという超敷居の高い偏屈爺さんシンガーのために、イギリス滞在を2日増やしたのです。間近で見るしかないっしょ。今年は《Astral Weeks》の50周年ということで、セットリストも特別です。このアルバムから〈Astral Weeks〉〈The Way Young Lovers Do〉〈Sweet Thing〉が披露された他はヴァンのグレイテスト・ヒット。涙。

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[ヴァンはこのへんの位置で見たぞ]





 イメルダのステージの後はオールスターによるファイナル・ジャム。この中で一番注目されたのが、久しぶりに観客の前に登場したポーグスのシェイン・マクゴーワンです。ワインをチビチビやりながら車椅子で登場して〈Dirty Old Town〉を歌いましたよ。もちろん、客席も大合唱です。トレードマークだったあのボロボロの歯を治したことがしばらく前に話題になりましたが、歯は良くなったのに体は元気になってないのかよ。(アップ直前に調べたら、スタジオで転んで骨盤を傷めた後、車椅子生活なのだとか)
 最初から最後までアイルランド臭ぷんぷんのイベントで、東洋系の奴が珍しかったのか(リヴァプール市内ですら、日本から来たっぽい奴は全然見かけませんでした----7月2日に、私が行った4時間後にペニー・レインの看板前に行った人がいたことは後に判明)、隣のオバチャンから声をかけられ、手を握られ、ジェスチャーから判断するに一緒に踊れということらしいのですが、言葉の方は一言も理解出来ませんでした。まあ、少なくとも邪険に扱われてるわけじゃなさそうなので、1曲ほどオバチャンのなすがままに。あ〜あ〜あ〜。



 ということで、終了は夜の11時過ぎ。帰り際にこんなTシャツを着た人を見ました。「ジェイムズ・ジョイスがオレの妹を犯してる」ってどう言う意味かわかりませんが、ジョイスが出てくるなんてアイリッシュじゃありませんか。

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 ホテルは会場の近くにたくさんあります。この頃は夏料金ですが、探せばまあまあ安いところもあります。車なんかなくてもOKです。
 皆さんが来年の夏の計画を立てる上で参考になれば幸いです。この文、7月中に書くべきでしたね。

   
posted by Saved at 23:22| Comment(4) | Van Morrison | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする