2017年09月27日

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 ロックンロール叢書から出してる2冊はどちらもkindle unlimitedに参加しています。少し興味はあるんだけど、テーマがテーマだし…ってことで躊躇している方は、「無料で読み放題」してください。

  

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2017年09月26日

リタ・クーリッジ、クリス・クリストファーソンとの共演アルバムと自叙伝を語る

 前回のバーンスタイン・チルドレンのインタビューに続き、今回もマイク・ラゴーニャさんからネタを提供していただきました。ありがとうございます。
 リタ・クーリッジの自伝については、このインタビューで初めて知りましたが、出たのは昨年のようですね。早速、安価なペーパーバック版を注文し、届くのを楽しみにしている今日この頃です。





リタ・クーリッジ、クリス・クリストファーソンとの共演アルバムと自叙伝を語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ


リタ、まず自伝『Delta Lady』の出版おめでとうございます。この本はあの時代をパーフェクトに捉えています。アルバムもリイシューされましたね。昔の旦那さん、クリス・クリストファーソンとレコーディングした《Full Moon》、それから《Beautiful Evening Live In Japan》です。《Full Moon》は1970年代の名盤の1つとして高く評価されています。

 クリスと私が一緒に作ったレコードが多くの人の家にあるってことは、それには素敵な何かがあるんでしょう。私たちは一緒に3枚のアルバムを作り、これらの作品は今でも世界中で聞かれていると思います。それが今回CD化されたのは、素晴らしいことですね。

セッションに関して何か思い出はありますか? クリス・クリストファーソンとのレコーディングはどんな感じだったのですか? どういう経緯で共演アルバムが実現したのですか?

 クリスはモニュメント・レコードと契約してて、私はA&Mと契約してて、ツアーで一緒に歌い始めた時、私たちのファンのためにレコードを作る必要があるって思ったの。一緒にツアーを行なって、私がオープニングを担当して、その後、クリスが自分のショウをやるって感じだったので、オーディエンスは「私たちのファン」になっていました。レコーディングを始めた時には、A&Mとモニュメント・レコードが話し合って、交互にレコードを出しましょうってことにしたの。《Full Moon》はA&Mから出たレコードです。A&Mから出たアルバムは、いつも、ロサンゼルスのサンセット・サウンドでレコーディングしていました。ちなみに、今、仕上げの作業中のアルバムもサンセット・サウンドでレコーディングしたの。

どうでしたか?

 そこに戻れて嬉しかったわ。

モニュメントから出たアルバムはどこでレコーディングしていたのですか?

 モニュメント・レコード用のアルバムをレコーディングする時には、ナッシュヴィルに行ったの。クリス&リタのアルバムを作ってる時はナッシュヴィルとLAを往復しながら暮らしてたようなものね。

クリスとスタジオでレコーディングしている時はどんな雰囲気だったのですか? 初めて一緒に作るアルバムということで、たくさんの期待感があって、どんなアルバムになるのか、あれこれ思い描いていたに違いありません。

 私たちは夫婦になってまだ日が浅かったし、スタジオでどういうふうに作業をするかも模索の段階だったの。カリフォルニアでは、ミュージシャンの多くはカリフォルニアの人だったし、ナッシュヴィルに行ったら、ナッシュヴィルのミュージシャンがいたわ。いつものバンドのメンバーも何人か起用したけど、スタジオ・ミュージシャンも起用しました。LAのスタジオは、私にとっては勝手知ったるの状態でした。レコード・プロデューサーで、クリス&リタのレコードもプロデュースしてくれたデヴィッド・アンダールは素敵な人物で、スタジオ内を平和に保つのが超得意だったわ。実際、調停役{ピースメイカー}が必要な時もあったのよ(笑)。

本当に? 例えばどんな場合ですか?

 クリスと私は入るヴォーカル・ブースが別々だったの。クリスはギターも弾いて、私はもっぱら歌だったから。レコーディングの際には、必ずしも一緒のヴォーカル・ブースに入ってたわけじゃないの。ある時、クリスが何かについて私に腹を立てて、私に対して酷い呼び方をしたの。私は何も言い返さなかったんだけど、デヴィッドはリヴァーブのつまみを回して、5分くらいそれが反響するようにしてたわ。



《Full Moon》の中でお気に入りの曲は何ですか?

 〈Hard To Be Friends〉が好きです。いちばん気に入ってる曲の1つです。〈Loving Arms〉も…。〈From The Bottle To The Bottom〉ではグラミーを取りました。

〈I Never Had It So Good〉も優れたトラックで、たくさんの人がレコーディングしましたが、一番人気があるのはクリス&リタ・バージョンだと思います。〈Loving Arms〉はアルバムのハイライトですね。

 私たちのヒットの1つだわ。今でも私のコンサートで歌ってます。私とクリスの重要ナンバーだと思うからです。今でも皆が聞きたがる曲だわね。

〈It's All Over (All Over Again)〉〈I'm Down (But I Keep Falling)〉はふたりで一緒に書いたものですよね。クリスとの作曲の作業はどんな感じだったのですか?

 クリスは映画の仕事で家にいないことが多かったし、私は娘と一緒に家にいたので、一緒に曲を書くのは滅多になかったわ。でも、そう出来た時はいつも、素晴らしい体験でした。クリスは自分のことをソングライターとして私より優秀だと思ってたので、私はいいアイデアを思いついた時でも、少し萎縮してました。クリスが仕事から帰って来た時に、私がコードを弾きながら思いついたアイデアをプレイすると、たいていは同意してくれたわ。でも、私たちの作曲スタイルは違ってるの。クリスはカントリー系のライターで、私はそうじゃないけど、楽しい時を過ごしたわ。クリスはとてもスイートでした。



このプロセスの間に、互いからたくさんのことを学んだんじゃないですか?

 そうね。クリスからはたくさんのことを学んだわ。既にあらゆることを知ってる人だったから。

素敵です。クリス&リタは私たちの文化を代表する夫婦としても注目されていましたね。おふたりはポール&リンダやジェイムズ&カーリーのように、ロックの王族でした。一緒にアルバムを作っていた時も、そう感じていましたか? 当時は「クリス&リタ」はどのようなコンセプトだったのですか?

 当時は、クリス&リタは私及び私のレコーディング・キャリアとは離れた存在だって、少し意識してました。空港で、ビートルズ・ファンみたいに叫びながら駆け寄って来た女の子たちに突き飛ばされた時は、さすがにうろたえたわ。彼女たちに取り巻かれる前に、私はクリスが背負ってる赤ちゃんを奪取しました。彼女たちには、私たち家族のプライバシーを侵害しているなんて考えは、これっぽっちもなかったわ。私たちが家族なんだという考えすらなかったの。私は本当に恐怖を感じました。でも、演奏となると、全く別の話です。たくさんの女の子が叫びながらクリスに向かって駆け寄るのは、彼の映画俳優としての仕事のおかげでしょう。そういうシーンがあったので。映画の中で、登場人物が人生の難しい状況を克服する様子を感情移入しながら見てしまったら、その人のところに行って、人生相談をすることが出来そうだと思ってしまうでしょう。私は音楽でそう感じるわ。そんなに熱烈なものではないけど。



クリス&リタに続いて、今度はリタの話をしましょう。あなたが多産なレコーディング・キャリアを通して、数多くのアルバムをリリースしていることは、我々は皆、知っていますが、リタ・クーリッジのステージを体験するのは全然別の体験です。レコーディングの時と比較して、ステージ上では、あなたのどんな部分を披露しているのですか?

 私は生で演奏するのが大好きなの。もう50年もそうしてるわ。家にいるのが長過ぎて、ツアーに出ず、バンドやファンとのそういう関係を築いてない状態だと、ある意味、仕事でしくじったかのように感じるのよ。生演奏には大切な要素があるわ。今まさにそこでやってるってことです。映画に対するブロードウェイっていう感じかしら。コンサートは1回1回が違うの。曲は同じかもしれません。曲順も同じかもしれません。でも、表現の仕方や受け方が毎回違うのよ。違う観客、違う会場だからです。皆、自分の人生のそれぞれ異なる場所にいるの。バンドもそう。私は常に素晴らしいミュージシャンに恵まれてきたわ。キーボード・プレイヤーとは、20年間、演奏活動を共にしています。私が制作中のアルバムの仕上げをしてくれたわ。優秀なミュージシャンとして信頼出来るだけでなく、家族のような関係になってくれる人々に囲まれてることが重要なの。仲間としてしかるべき人間だったら、そうなるのよ。私は素晴らしいバンドを持っていて、皆で音楽を演奏していると、とても楽しい時を過ごせます。確かに、ツアーのための荷造りは嫌いだわ。既に、移動するのが苦痛の歳になってるの。でも、ステージに立って、同じ瞬間を共有し、音楽を演奏し、客席の人が一緒に歌ってくれると、私の心は高まるわ。素晴らしいわよね。

● そんな瞬間になった時には、1969年に戻ったような感じがするのでしょうか?

 そうね。あの感覚は決して変わりません。自分の歌の技術についてもっとよく知っていて、演奏についてももっとよくわかるようになったので、どちらかというと、今のほうがうまいでしょう。まだまだ勉強中だと思ってますけどね。だって、テクノロジーや世の中のほうがどんどん変わるでしょ。客席を見たら、皆がスマホを掲げていて、私が帰宅する前に動画がYouTubeにアップされてるなんて、20年前には考えられなかったわ。



● (笑)スマホを掲げている人たちは《Anytime…Anywhere》を知ってるのでしょうか? 今では、そういう人は1つか2つ前の世代なのでしょうか?

 オーディエンスの中にはあらゆる種類の人がいると思うの。人口統計的には、両親や祖父母からああいう音楽を聞かされて、あの時代の、あのジャンルの音楽が好きになった子や孫の世代も来てます。ああいう音楽を聞いて育ち、彼らの親の世代もああいう音楽を聞いて大きくなったの。そういうのが今もなお残ってるのね。終演後にCDや本にサインしたり、皆とお話をしている時に、小さな子供やティーンエイジャーの人がたくさん来てくれるので、とてもありがたく思うわ。ショウの後、好きな人に会いに行って、握手をして、「今晩あなたに、また人生を変えられましたよ」って伝えられることがどんなに大切か、私はよくわかってます。ファンに接することの出来る機会は私にとっても大切です。だから、あらゆる年齢層の人と会うことにしてるの。私と同年代かもっと上で、「あなたのファースト・アルバムを持っていますよ。おっと、歳がバレちゃうなあ」なんて言う人がいるのよ。「ねえ、本人を前にしてそんなこと言わないでよ!」って答えます。笑っちゃうでしょ。

● (笑)大ヒット曲〈Higher And Higher〉や映画『007』のテーマ曲〈All Time High〉は皆で大合唱ですよね?

 もちろん。一緒に歌ってって言うと、皆、そうしてくれます。〈Fever〉〈The Way You Do The Things You Do〉〈How Sweet It Is〉は皆も一緒に歌いたい曲だってわかってるわ。ワクワクします。皆、ショウに参加するのが好きなのよ。ケブ・モーは私が大好きなレコーディング・アーティスト/パフォーマーなんですが、彼はいつも観客を引っ張り込むの。ショウを見に行った時に、観客としてショウに参加して、とても楽しかったわ。

ステージもしくはスタジオで、リタ・クーリッジにはこんな面もありますってファンに知ってもらいたいくて、意識して前面に出そうとしていることってありますか?

 そういうのは意識して出来ることじゃないと思うの。もし起こっているとしたら、今回のニュー・アルバムの制作中に何かが進化してるのかもしれません。新曲を書きながら、常に勉強中の私は、ソングライティングや解釈の点で変化を感じたわ。レコード・プロデューサーのロス・ホガースは、私を限界まで、本当の限界まで追い込んでくれるの。それがいいんでしょう。

ニュー・アルバムについて話しましょう。もうタイトルは決まってるんですか?

 私にはアイデアはあるのですが、その件でレコード会社からはまだ返事がないの。なので、今はノー・コメントのほうがいいでしょう。

どこのレーベルから出るのでしょう?

 ロサンゼルスにあるブルー・エランというインディペンデントのレーベルなんですが、素晴らしいレコード会社よ。A&Mと契約した時と同じく、アット・ホームな感じがするの。いろんな部署には人間がいます。アート部とマーケティング部があって、ビヴァリーヒルズにあるビルの2フロアか3フロアに入ってるレコード会社なんですが、若い人が本当に熱心に働いてるわ。私の知る限り、そういうのって、しばらく前からありません。昔のようなかたちのレコード会社は、いまはもう存在しません。アーティストがレコード会社の社長や社員と人間関係を築くのは難しくなったわ。でも、ブルー・エランにミーティングに行くと、知ってる人が25人いるの。私のために、今回のレコードのために働いてくれてるスタッフがいるんです。素晴らしい。過去に時間旅行したような感じよ。

昔は、そういうエネルギーがアーティストを一人前に育てていたんですよね。

 それから、スタッフの献身もね。私はこことアルバムを3枚出す契約をしたの。今の多くのレコード会社のように、単に「1枚出しましょう。そしたら、さようなら」ではなくて、「今のあなたのベストを引き出します。そして、次はもっと前進しましょう」という方針です。私はこうしたスタッフと未来を共有してるの。今回のレコードには、1970年代以降に出したどのレコードよりもワクワクしています。とてもいい気分。25歳のような気分なのよ!

曲は誰かと共作しているのですか? ひとりで書いているのですか? 全体的に、レコーディングのプロセスはどんな感じで進んでいるのですか?

 ベーシック・トラックは6月はじめに録り終えたわ。夏はずっと、私のヴォーカル・トラックの仕上げをやってたの。とてもうんざりしながら、と言っておきましょう(笑)。プロデューサーが全てに超完璧を求める人なのよ。「私はこのレコードを、あなたが作ったものの中で一番の傑作にしたいんです。なので、あなたの実力に満たないものは一切、このレコードには入れません」なんて言うの。私は「承知しました」と言うしかありません。ケブ・モー、ジル・コルッチと2曲書いて、スタン・リンチとも1曲書いたわ。ナッシュヴィルのソングライターが書いた曲もいくつかあるの。素晴らしい曲が集まったわ。カバーはありません。全部新しいマテリアルです。

今回のアルバムには誰が参加しているのですか? ケブ・モーにも参加してもらったのですか?

 ケブとは一緒にデモを作ったの。私たちはその曲をナッシュヴィルに持って行く予定よ。ケブは一緒に書いた2曲でギターを弾いてくれる予定です。ヴォーカルでも参加してくれないかなと思ってるの。ケブは仕事を共にするのに最適の人物です。なので、夢が叶ったわけよね。昨年の夏に、ザ・ブラザーズ・ランドレスというグループが目に留まったの。ふたりの兄弟とリズム・セクションからなるカナダのグループで、2015年にはジュノー賞の年間最優秀新人賞を獲得してます。素晴らしいグループよ。ギターはジョーイ・ランドレスっていう人なんですが、彼ほど歌がうまい人には長年出会ってません。レコード会社の承諾を得て、10日前にカナダからジョーイを呼び寄せて、今回のアルバム用にスライド・ギターとヴォーカルで参加してもらったの。天にも昇る気分です。アメリカでは殆どの人がザ・ブラザーズ・ランドレスを知らないと思いますが、カナダではとても成功していて、ジョーイはソロでミニ・アルバムも出してるのよ。とてもエキサイティングです。オースティン出身のデヴィッド・グリソムは、今回のアルバムではギター担当なんですが、彼の曲も1つ取り上げたの。ソロ作も持ってる人よ。ボブ・グラウブがベース、ライアン・マクラウドはドラム、ジョン・タルマスはキーボードを担当してます。サンセット・サウンドでレコーディングしている時、そこを通りかかった人が言ってたわ。「ワオ! A級のバンドを抱えてるんですね」って。

予期せぬ人を突然引っ張り込んだりはしなかったのですか?

 いいえ。方向性をしっかり把握してたので、少人数のチームで固めてたわ。皆の頭の中には数分後に演奏すべき音楽があったの。ある日、皆で昼食をとっていたら、フローレンス&ザ・マシーンのフローレンスがバスケットボールに興じていたのよ(笑)。でも、私には、そこに行って「あなたの歌、大好きです」なんて言う勇気はなかったわ。ただ口をポカンと開けて眺めていただけ。

会って目の前にいると、シャイな女子高生みたいな気分になってしまう人なんて、まだ存在するんですか?

 ええ。ジョーイ・ランドレスが来た時には、私はそんな気分になったわ。だって、ジョーイと会って仕事をするのに、こっちには、レコードを作ってるからっていう理由しかないのよ。これまでに25枚のアルバムを作ったっていう実績を持ってるっていうのに、爆竹よりもホットな存在になるのは時間の問題のカナダの若者を招こうって考えただけで…。で、ジョーイがやって来て、私の曲を気に入ってくれて、楽しい時を過ごして…世界で一番いい人だったわ。ジョーイがスタジオにいた間ずっと、私は彼のファンでした。今でもファンよ。私をハッとさせる人は、今でも何人もいるわ。

回想録を読みましたが、驚きの冒険談がいくつも書いてあります。いろんな人と仕事をしましたね。リオン・ラッセル、ジョー・コッカー、デラニー&ボニー…それから、マッド・ドッグズ&イングリッシュメンにも参加しています。あなたのあの頃のキャリアで起こったワイルドな出来事を無事切り抜けるには、相当な勇気が必要だったはずです。違いますか?

 最初、私はメンフィスにいたの。そこには1年ちょっとしかいなかったんだけど、ロサンゼルスで何が起こってたかは知ってたわ。そこから生まれる音楽を聞くことは出来たので。私はメンフィスにいたら自分の成長はこのへんが頭打ちかなと感じてました。マーティン・ルーサー・キングは殺され、スタックス・レコードも殆ど休業状態。肌の色は関係なく、皆が集まって音楽を演奏することの出来る場所は閉鎖されてしまったの。デラニー&ボニーからのお誘いは私にとって大きな転機っだったわ。ボニーに言われたの。「カリフォルニアに来て、エレクトラから出る私たちのニュー・アルバムを参加してよ」って。同時に、リオン・ラッセルともつきあい始めました。リオンからカリフォルニアに来てよって言われた時、デラニー&ボニーからも誘われたのよ。リオンから「一緒に車で行こう。オレはひとりぼっちだから」って言われたの。メンフィスで青いサンダーバードを買ったんで、それに私を乗せて帰りたかったの。家財道具全部は持って行きませんでした。ずっと向こうにいることになるのかわからなかったので、スーツケース1個だけ持って行ったわ。向こうに着いて比較的すぐに、カリフォルニアこそ私がいたい場所だってわかったの。だって、カリフォルニアに行ったら、シングル(〈Turn Around And Love You〉)がナンバー1になったんですもの。「メンフィスの小さなレーベルでレコード作っても、こんなこと起こらないわ」って思ったわ。フェニックスとロサンゼルスと、アメリカの他のどこかの町だけのローカル・ヒットでしたが、これは小さな兆候だったの。着いた直後に、私はリオンとマーク・ベノとスタジオに入って、このシングルをレコーディングして、TV出演もしました。自分がいるべきところに遂にやって来たって感じだったわ。メンフィスにいた1年半は学習の場だったのね。ロサンゼルスに着いた時、私はいるべき場所にいるって思ったわ。



あなたが入ったグループの話をしましょう。少なくとも最初のうちは、「オー・マイ・ゴッド! 何が起こってるのかよくわからないんだけど、一緒に転がってみようかしら」という感じだったんじゃないですか?

 まさにそう! 開いてるドアには全部入ったわ。メンフィスにいた1年半には、たくさんのスタジオ・ワークをこなした他、コマーシャル・ソングを録音したり、歌手たちで集まって楽譜を読む練習をしたりしてたの。メンフィスは、ある意味、学校でした。カリフォルニアに行って、エレクトラから出たデラニー&ボニーの第1弾アルバムを作って、ツアーにも参加したけど、ここはマッド・ドッグス&イングリッシュメンというロックンロール大学に入学するための訓練の場でした。いくつもの学習の段階があって、私はどっちのドアに入るべきか、どっちのドアに近づくべきではないのか、一緒にいるのが自分のためなる人の集団と、超危険だからつるんじゃいけない人がわかるようになったの。私を傷つける存在ってわけではないんだけど、人生の良い選択肢ではないって意味でね。

あなたの回想録に書いてある大好きな話の1つが、あなたとグレアム・ナッシュとの関係です。彼はあなたと別れてジョニ・ミッチェルと暮らすようになってしまったそうですが、かなり辛かったんじゃないですか?

 私としては別に…。グレアムとは大親友だったわ。「これから1週間、ヘイト・アシュベリーに行くんだけど、君も行きたい? それとも、ここにいる?」って言われたんだけど、「ここにいるわ」って言ったの。私には私の友達づきあいがあったし。グレアムと私がカップルだったのは、私がマッド・ドッグズ&イングリッシュメンのツアーに出る頃までで、グレアムはヘイト・アシュベリーに引っ越して、向こうでもっと長い時間を過ごすようになり、いつの間にか別れてしまいました。でも、グレアムが私の気持ちを傷つけたことなんて1度もありません。

グレアムはあなたと暮らしている頃に、《Songs For Beginners》の曲を書いて、それをジョニ・ミッチェルに捧げてるんですよね。別の女性のために曲を書いてるなんて変だとは感じませんでしたか?

 グレアムはジョニ・ミッチェルについての曲を書いてたの。ジョニ・ミッチェルよ(笑)。地球で一番美しくて、完璧で、天使のように愛らしい女性だったでしょ。グレアムがジョニに関する曲を書きたくなったわけを、私は100%理解してたわ。



● (笑)それじゃ、あなたの立場が…。

 グレアムはいつもとてもやさしかったのよ。「君の気に障るかな?」なんて言うから、「全然! こんなに美しい音楽が出来るんですもの、超ワクワク」って答えたわ。いい曲だったでしょ。

わかってますよ。グレアムは本当にいい人ですから。グレアムは、長年に渡って、あなたやあなたと同時代の多くのミュージシャンと同様、音楽界に多大な貢献をしてきた人です。リタ、あなたも音楽界に足跡を残し、世界を変えたアーティストのひとりですね。

 リオン・ラッセルも忘れないでよ。リオンはミュージシャンズ・ミュージシャンです。彼ほどたくさんの音楽人の人生を変えたピアノ・プレイヤーはいないと思うわ。自分の人生が変えられてる時にもそう感じてたし、あれ以来、何十年もの間ずっと、そう感じているの。あんな経験、ありません。天才的なミュージシャンは他にもいます。たくさんいます。バンドやミュージシャンの森の中で自分の道をしっかり進み、人生が変わっちゃうくらい凄い人と出会うのは大変なことです。当時の音楽界は今ほど層は厚くなく、人数も今ほど多くはありませんでした。あの頃もレコード会社やラジオがあって、私たちは皆、同じものを聞いていました。ジミ・ヘンドリクス級、ボブ・ディラン級の強力な人がいました。後にも先にも、ああいう人たち出現しないでしょう。こうした人たちとステージに立ち、レコーディング・スタジオで一緒になり、今でも立派に通用するパワーを感じることが出来たなんて、パワフルな時代だったのね。その一員になれたことを、私は永遠にありがたく思います。それを端のほうからこっそり見ていたんじゃなくて、そのまっただ中にいて、歌を歌い、曲を書いていたんですからね。これはもの凄い体験で、今でもなお音楽を続けている唯一の理由がこれだと確信しているわ。音楽は私の天職よ。人生の目的なの。やめようとは全く思いません。

アーティストを目指してる人にはどんなアドバイスをしますか?

 人生で他に出来ることが何かあるなら、そっちを選択しましょうってことよ。「大学教授になろうかなあ。でなければ、シンガー・ソングライターになりたいなあ」っていう場合には、私は勉強の道を進むよう薦めるわ。たぶん、そっちのほうが確実だからよ。テレビから、インターネット、フェスティバル、それから誰かの家まで、思いつくありとあらゆる場所に、何百万ものシンガー・ソングライターがいるんです。わたしのように音楽しか出来ない人間も中にはいます。私が常に歌い続けたり、曲を書き続けたりしてきたのは、音楽に呼ばれたからなのよ。私が音楽を呼んだんじゃないの。年下の人から「私は何になれますかね?」と質問されたら、いつも、こう答えてるの。「自分の才能を大切にして、それを与えてくれた神様に感謝しましょう」って。小さな女の子のグループが私のところに来て、歌を歌ってくれて、それが上手な時にもこう言うわ。「とっても素敵です。ずっと続けてください。でも、他の勉強もしっかりね」って。

良いお母さんのようですね。

 (笑)私の娘はいろんなことをやってて、今でもバレーを教えながら、自分でも踊ってるの。過去15〜20年間ずっとそうしてるんですが、最近はブルーグラス・バンドもやってるのよ。ある日、郵便箱をのぞいたら、CDが入ってるようになればいいなあと思うわ。グループ名はイエローフェザーっていいます。クリスとの間に出来たあの娘{こ}は、家族と家で暮らして、自分の子供たちを育てながら、先生になって、バレーを教える生活を選んだように見えたの。ホメオパシー医もやってたわ。これまで、音楽を書いたり演奏したりもしてましたが、音楽が勝つなんて全くの予想外よ。しかも、今のところは音楽が勝ち続けている状態なの。

将来の予定はありますか?

 今まさに、人生の大きな転機を迎えようとしてるところよ。カリフォルニアの自宅を売って、フロリダ州北部に引っ越しをしようと思ってるの。

どんな理由からですか?

 ハイスクールの時にフロリダに住んでて、フロリダ州立大学を卒業してるの。だから、ノース・フロリダは私にとって、ずっと美しいところなの。1つキーワードがあるの。それは「水」です。フロリダには水があるの。

フロリダは時々水害に見舞われますね。心配ではないですか?

 そうね。でも、パンハンドル地域では洪水は起こりません。緩やかな起伏の美しい丘があって、樹齢数百年のオークの巨木からはサルオガセモドキが垂れて、道路の天蓋のようになっていて、シーフードも美味しいし、私が好きなものがたくさんあるのよ。引っ越しが楽しみです。

[テープ起こし:ガレン・ホーソーン]


The original article “Conversations With Delta Lady Rita Coolidge” by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/entry/conversations-with-delta-lady-rita-coolidge-pocos_us_59a81ce4e4b02498834a8f26
Reprinted by permission
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2017年09月12日

来年はレナード・バーンスタインの生誕100周年

 米ハフポストにて、多数のアーティストや関係者の最新インタビューをタイムリーに届けているマイク・ラゴーニャが、レナード・バーンスタインの99歳の誕生日に、バーンスタインの子供達(ジェイミー・バーンスタイン、アレクサンダー・バーンスタイン、ニーナ・バーンスタイン=シモンズ)のインタビューを掲載。生誕100周年に向けて大きなイベントが行われるようですが、バーンスタイン・ファンが多数存在する日本でも、何か行なわれるのでしょうか?

 




来年はレナード・バーンスタインの生誕100周年
聞き手:マイク・ラゴーニャ


 作曲家/指揮者/教育者/社会活動家/ヒューマニストであるレナード・バーンスタインが誕生したのは99年前の今日(8/25)でした。世界を股にかけて大活躍したこの人物の功績の中には、指揮者として初のアメリカ出身の巨匠になったことと、それと同時に、クラシック音楽と他の音楽ジャンルの間にある隔たりを縮めようと努力した教育者となったことが挙げられます。バーンスタインの『青少年コンサート』はCBSテレビの看板番組となりました。
 最も人気の作品というと《ウエスト・サイド物語》や《オン・ザ・タウン》《キャンディード》等が挙げられますが、《ミサ》や、ケネディー暗殺後に作曲した《交響曲第3番:カディッシュ》も同じくらい重要な作品です。そして、彼がコロムビア響とレコーディングした名盤によって、ジョージ・ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》は不朽の古典となりました。
 社会にも関心のあったベーンスタインはヴェトナム戦争に積極的に反対し、公民権運動にも深くかかわりました。1989年には、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の全米芸術基金に対する政策への抗議を表明するために全米芸術勲章の受賞を拒否しました。
 ケネディー・センター・フォー・パフォーミング・アーツは9月22日(金)から『レナード・バーンスタイ・アット・100』というイベントを開催し、以後、2年間かけて、全世界6大陸で伝説的音楽家を記念して1,000以上のイベントが行なわれることになっています。

1年後の2018年8月25日は皆さんのお父上の100歳の誕生日ですが、そのお祝いは既に始まっています。家族としての視点は少しわきに置いといて、レナード・バーンスタインが文化に対してどんな貢献をしたとお考えですか?

ジェイミー・バーンスタイン:音楽の素晴らしい才能を持っていたおかげで、さまざまな方面で活躍をしました。指揮者としては、交響曲への深い理解と情熱を世界中の音楽ファンと共有し、オーディオ、ビデオの記録を通して名曲の定番となる名演奏を世界に残しました。作曲家としては、前代未聞の広さの守備範囲を誇りました。交響曲、ミュージカル、バレー、オペラ、映画音楽などです。音楽だけでもこんなにあります。レナード・バーンスタインを唯一無二の存在にしているのは、以上の音楽的貢献に加えて、CBSテレビの『青少年コンサート』やハーヴァード大でのノートン・レクチャーなど、教育者としても重要な貢献をしたことです。父は死ぬまで人権や社会正義のために戦う闘士でした。

アレクサンダー・バーンスタイン:レナード・バーンスタインの中にあった才能と情熱がユニークに結びついて、全世界の人々に影響を与えたアメリカ音楽の巨人を生み出しました。幅広いジャンルとスタイルでさまざまな作品を創造した作曲家として----それがレナードのスタイルでしたが----ジャジーなサウンドをクラシックのコンサート・ホールに、交響曲の構造と感性をブロードウェイのステージに持ち込むことに成功しました。アカデミズムの世界では調性{トナリティー}など見向きもされてない時に、レナードはそれを擁護しました。アメリカ出身の指揮者として初めて世界中で巨匠として認められたレナードは、多くの後進のためにドアを開きました。「アメリカの音楽教師」としては、あらゆる年齢層からなるテレビ視聴者に「クラシック音楽」がエキサイティングなものであることを伝えました。この教育的遺産はアートフル・ラーニング[artfullearning.org]に受け継がれています。そして、社会活動家としては、進歩的理念のさらなる進展に興味を持っていました。

ニーナ・バーンスタイン=シモンズ:ガーシュインもそういう人だったかもしれませんが、「高等文化」と「大衆文化」との間の橋渡しをし続けた人は、後にも先にもレナード以外には思いつきません。前者はコンサート・ホールやバレーのことを言っていて、後者はブロードウェイのステージやハリウッド映画のことです。1943年の《オン・ザ・タウン》といったショウを見たら、複雑なオーケストラ音楽に合わせたダンスの長いシーケンスが間抜けなコメディー・ナンバーと一緒に並べられているのです。これは斬新なことでした。私たちの父は、音楽を「クラシック」や「ポピュラー」に分類することに意味はないと思っていました。良いものは良いのです。特に劇場用の音楽においては、ストーリーを盛り上げる音楽であったら、どのスタイル、どのジャンルのものであろうと関係なかったのです。だから、交響曲の中にジャズがあり、《ミサ》の中にロックンロールがあるのです。《オン・ザ・タウン》の中には、ジョージ・アボットほどの大ディレクターの言うところの「ああいうプロコフィエフみたいな要素」があるのです。

皆さんの意見としては、レナード・バーンスタインの最も重要なレコーディングは何ですか? それを選んだ理由は? 皆さんが好きなレコーディングは何ですか? それに関してどんな思い出をお持ちですか?

ジェイミー:私は個人的には、父がニューヨーク・フィルハーモニックを弾き振りしたベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第1番》が好きです。父が家でこの曲を練習しているのが聞こえてきて、それでこの曲が好きになってしまいました。ニューヨーク・フィルハーモニックとレコーディングしたベルリオーズの《幻想交響曲》も好きです。私たち兄妹も父とニューヨーク・フィルの1968年のヨーロッパ・ツアーに同行したんですよ。まだ子供の頃の話です。訪れる都市で毎回この交響曲を聞いたおかげで、この曲を一生好きになってしまいました。私たちの頭の中には全ての音が入ってます!

アレクサンダー:マーラーのレコーディングですね。最初のものも後のものも重要かつ優れています。《ラプソディー・イン・ブルー》もいいですね。父のお得意のナンバーです。オーケストラとはツーカーの関係でした。それに、父の骨の随にはガーシュインがいました。自作曲を臆せずレコーディングしたことにも敬服しています。《チチェスター詩篇》や《セレナード》はよく聞いています。個人的には特に、ベートーヴェンの《3番》と《6番》とブラームスの《4番》----ニューヨーク・フィルハーモニックと一緒にやったもの----が好きですね。ティーンエイジャーの頃、1年ほど、父とはギクシャクしていた時期があったのですが、《田園》を聞いて再び通じ合うことが出来ました。

ニーナ:父は全レコーディングの中でも、ウィーン・フィルハーモニックの弦楽パートとレコーディングしたベートーヴェンの《弦楽四重奏曲第14番 Op.131》をいちばん誇りに思っていました。これは最晩年に作曲された弦楽四重奏曲の1つで、拍子やテンポの変化がワイルドで、ムードも突然揺れ動くので、どの室内楽アンサンブルにとっても難しい曲なのです。フル・オーケストラの弦楽器セクションで弦楽四重奏団と同じくらい引き締まったサウンドを出すことが出来たのは、並々ならぬ成果です。聞いていてワクワクします。



バーンスタイン家で子供時代を過ごすというのはどんな感じだったのですか? 家の中にはどのくらい音楽があったのですか? お父さんとしてのレナード・バーンスタインにはどのような思い出がありますか?

ジェイミー:音楽は私たちの「存在の基盤」でした。鳥にとっての空気、魚にとっての水のようなものでした。父に関する楽しい思い出は、いちばん近くのキーボードに向かっている姿です。たいがい、ライブラリーのハープシーコードに向かって、私たちが話題にしていることをネタに、その断片を弾くんです。マーラーの交響曲からテレビCM、ビートルズの最新アルバムに入ってる歌まで、何でもです。



アレクサンダー:子供時代は最高でしたよ。パーティー、ゲーム、友人、旅行、楽しいことがいっぱいあっりました。父は兄弟と親しくしてたから、親戚の人がいっぱいいました。友人のベッティー・コムデンとアドルフ・グリーンはいつもいました。他の人もです…。母が優雅に、強烈なユーモアのセンスで、家事や食事、旅行の切り盛りをしていました。両親は互いをとても愛していましら。レナード・バーンスタインは旅行に出ることが多かったのですが、家にいる時には、子供たちをよくかまってくれました。
 家の中で流れている音楽はたいてい父の音楽でした。書いたばかりのものを私たちに弾いてくれたり、ニュー・アルバムのテスト盤を聞いたりしていました。でも、ビートルズのニュー・アルバムを聞いたり、友人が来ている場合には、夕食の後にピアノの連弾をすることもありました。クリスマスにはいつも、私たちはクリスマス・キャロルを歌いました。

ニーナ:子供時代は、私たちの家は、世界で一番才能があって、一番おかしな人たちが集まる場所になってるように感じました。私たちの母、フェリシア・モンテアレグレは人をもてなす優れた才能の持ち主で、我が家にやって来た人全員を楽しくもてなし、特別な気分にさせました。父のコンサートがない晩には、よくディナー・パーティーがありました。ディナーの後、父はピアノに向かって、ショパンの〈マズルカ〉から昔の皆が知らない曲まで何でも弾きました。アドルフ・グリーンとベッティー・コムデンも一緒にです。ふたりは父と同じレコードを聞いて育った口でした。皆、こんな晩は終わって欲しくないと思いました。
 父にとって、音楽とは仕事やエンターテインメントというだけではなく、体の一部にもなっていました。スイッチを切ることが出来ないものです。音楽はずっと、父の中で生き、呼吸をしていました。家の中が静かであっても、父は頭の中で音楽を聞いていました。次のコンサートのためにスコアの研究をしていたか、さもなければ、作曲をしていたからです。
 ある時、私が自室で学校の宿題をやってると父が入ってきました。ラジオからはクラシック音楽の専門局が流れていました。すると父は「ラジオなんかつけていて、よく宿題に集中できるな!」って言うんです。私は、真剣に聞いてるわけじゃない、ラジオがついてるとリラックス出来るんだ、みたいなことを答えました。その後、父からアクティヴ・リスニングの重要性に関する講義をみっちり受けることになりましたけどね。音楽の持つ「リラックス」効果については、父はストラヴィンスキーの《春の祭典》は全然リラックス出来ないって言ってました。父の言いたいことはよくわかったので、私はラジオをオフにしました。

レナード・バーンスタインの劇場用作品、歌、室内楽作品、コンサート用音楽を含む、1960〜1974年の作品を集めたCD25枚組ボックスセットが、ソニー・クラシックスからリリースされました。その中にはマルサリス兄弟やアンドレ・プレヴィン、デイヴ・ブルーベック等のアーティストがバーンスタインの音楽を演奏したトラックを集めた2CDのコンピレーションも含まれているのだとか。皆さんはこのアルバムを編むのにどのくらい関与したのですか? 今回、作品全体を見て、レナード・バーンスタインやその作品に関する新発見はありましたか?



ジェイミー:このコンピレーションを生み出す作業には私たちは関与していませんが、ソニーがそれを見事にやってくれました。あまりよく知られていないお宝音源もあります。例えば、バリーの戯曲版『ピーター・パン』のために書いた付随音楽とか。

アレクサンダー:ボックスセットの編纂には私たちは関与していませんが、出来上がりには大興奮です。父特有のサウンドを聞けるのと同時に、作品の見た目のヴァラエティーにも驚きです。これもパラドックスなのですが、父の音楽は演奏するのは難しいものの、楽しむのは簡単なんです。

ニーナ:編集には全く関与していません。ジャズのレコーディングは私にとっては新しいものでした。



《ウエスト・サイド物語》は、映画もミュージカルも、アメリカ文化において確固たる地位を築いており、世代を超えて愛されています。今でもなおこの作品が重要性を失っていない理由の1つは、まずは『ロミオとジュリエット』的なテーマがあるからでしょうけど、皆さんは、バーンスタインとスティーヴン・ソンドハイムのこのコラボレーションが人々に愛され続けている理由は、何だと思いますか? このコラボレーションの裏にはどんな話があったのですか? 共同作業の制作プロセスはどんな感じだったのでしょうか?

ジェイミー:この質問に答えるには丸々本1冊が必要でしょう。この作品が愛され続けている理由は、もちろん、テーマとなっているマテリアルでしょう。残念なことに、シェイクスピアの時代と同様、現代においても、いたるところに憎しみと不寛容が存在します。父の書いた音楽はまさにスリリングです。ジェット団をビーバップ・ジャズで表し、シャーク団をラテンのリズムで表すなんて絶妙です。音楽は言葉と同じくらい刺激的にストーリーを語ります。ジェローム・ロビンスの振り付けも同様です。動きによって物語を語っています。音楽と会話とダンスを大胆に織り合わせることで、敵意に満ちた世界の中で懸命に生きている人々の愛の物語を語っているのが、《ウエスト・サイド物語》が他のブロードウェイ・ミュージカルと違う点ですね。

アレクサンダー:まず、コラボレーションには4人の作者が関与していました。脚本、ダンス、歌がつなぎ目がわからないほど密接に絡み合っています。バーンスタイン/ソンドハイム作の歌にはエネルギーが溢れ、音楽性も本物です。とても大胆です。オペラみたいな時もあれば、完全にラテンの時もあれば、ジャズ風の時もあります。

ニーナ:実際、ソンドハイムは制作の比較的に後の段階でチームに入りました。オリジナルのコラボレーターはバーンスタインとジェローム・ロビンス----最初はミュージカル・ショウを作りましょうということでした----とアーサー・ローレンツだったんです。ショウが成功したのは全員が「同じショウ」を書いていたからだと、ずっと言われています。複数の書き手が1つの作品に対して異なる指針やヴィジョンを持っていることが、ショウの出来に悪影響を与えてしまうということが多々あります。《キャンディード》はその1例だと思います。リリアン・ヘルマンは現代のアメリカ社会・政治について遠回しに書いていたのですが、父はヨーロッパへのラヴレターを書いていたのです。
 《ウエスト・サイド物語》では、人種対立が起きている非道な地域における悲痛な恋の物語というヴィジョンを、作家全員が共有していました。ロビンスの振り付けは、バーンスタインの音楽を視覚的に表現したものです。そして、ローレンツの書いたジャズ風の粋なダイアログは、私たちをあの世界に直行で連れていってくれまし。私たちはそうだと100%信じています。

皆さんのお父上はコラボレーションを楽しんでいましたか?

ジェイミー:はい。父は誰かとコラボレーションをするのが好きでした。それによって何度もミュージカルの劇場----ブロードウェイ、オペラ、バレー----に引き戻されました。

アレクサンダー:父はコラボレーションが好きでした。ミュージカルの作曲を続けた理由の1つがそれだと思います。指揮の先生だったクーセヴィツキーや多数の評論家等、大勢の人の願いに反してね。父は何であれ、ひとりだけで作業をするのは辛かったようです。

ニーナ:父はミュージカルの作曲であれ、レコーディングであれ、コラボレーションで成功した人間です。実際、コンサートで演奏するのは全部、オーケストラとのコラボレーションだったと言えます。

レナード・バーンスタインが現代の最大の作曲家であることについて話しましょう。どういうプロセスで作曲していたのですか?

ジェイミー:ソファーで寝ているのかなあと思ったら、実際には頭の中で音楽を作ってたなんてこともありました。その後、ピアノに向かって、さらに作業を進めて、楽譜に書き留めていました。夜遅い時間が一番はかどっていたようです。あまり寝ていませんでしたね。

アレクサンダー:父の作曲プロセスは大きな謎です。ソファーに寝ころんで、半分眠っている時に、曲やメロディーが降りてくるって言ってました。「ゾーン」に入り込んで集中して、数時間後、気づいたら原稿が何ページも出来ていました。



ニーナ:私たち兄妹の記憶にあるのは、音楽が父に簡単に降りてきて、作曲プロセスが楽しかった時のことですね。私が作曲中の父のことを覚えているのは《ミサ》を書いてる時です。この時は、音楽は簡単に出来たのですが、とても複雑な構成の作品で、テーマも論争を招きそうなもので、社会政治的に不安定な時代における信仰の危機を扱っていました。その上、従来の筋というのに欠けていました。スティーヴン・シュワルツと一緒に書いたわずかな部分以外は、ひとりで書いたんですけどね。大胆なことをやっているという自覚があって、一般大衆にはウケないだろうなあという不安を抱えていました。《ミサ》がケネディー・センター・フォー・パフォーミング・アーツのこけら落とし用の曲になるということで、さらにプレッシャーが増えました。重要な仕事だったのです。
 父が作曲する様子を覚えている次の曲が《ペンシルヴェニア通り1600番地》です。どうなったかは皆さんご存じでしょう。私たちの多くが知っての通り、ゴージャスなスコアが出来上がりました。でも、アラン・ジェイ・ラーナーの脚本のまずさをカバーするには足りませんでした。
 父は最後の大作《静かな場所》でかなり悩みました。メロディーは簡単には出てきませんでした。父は私たちの母親の死をまだ悲しんでいて、家族の死を新作オペラのテーマに選んでしまったことで、メロディーを思いつくたびに苦しみも新たになりました。最終的に、苦しみの末に心が浄化される美しいオペラになりましたが、作曲のプロセスは苦悶そのものでした。



少し話題に出てきましたが、《ミサ》にはスティーヴ・シュワルツによる追加マテリアルが含まれています。ポール・サイモンも歌詞で貢献しています。「人の半分はドラッグでイッちゃっていて、もう半分は次の選挙を待っている。人の半分は溺れていて、もう半分は間違った方向に泳いでいる」という箇所です。《ミサ》は、リリース当初は若い世代にメッセージを発しているようでした。このプロジェクトについて思い出や深い話はありますか?

ジェイミー:《ミサ》は時代を先取りした作品で、ようやく世界が追いついたような感がします。生誕100周年の頃に世界中で《ミサ》の上演が予定されているので、私たちはとてもワクワクしています。この作品は、いろんな理由で、父の最も個人的なものです。オーケストラやコーラス、ブロードウェイ・スタイルの歌手、ロック・バンド、マーチング・バンド、子供のコーラスを起用しているだけでなく、信仰や人類について辛辣な疑問を提示し、強く反戦を表明してもいるという、父の雑食性も反映しています。

アレクサンダー:初演の晩まで、猛烈な勢いでこの曲の作業を行なっていました。確かに父は若い世代に向けてメッセージを発していましたが、それはいつもやっていたことですよ。何をやるにせよです。演奏者、キャスト、ダンサーは、皆、若い人で、父は若者が大好きでした。作品に対する賛否両論にはがっかりしていました。この曲はヴァチカンでも上演されたのですが、父がそれを見ることが出来ればよかったのになあと思います。今では、世界中いたるところで演奏されていますけどね。



ニーナ:1970年にはジェイミーは18歳、アレクサンダーは16歳でした。父にとって彼らは、文化的には、いわゆるウェザーメン(1970年代に活動したアメリカ合衆国の極左テロ組織)みたいなものでした。父も母も常に社会運動に関わっていました。ヴェトナム戦争に抗議するためにワシントンに行った時には、ジェイミーとアレクサンダーも連れて行きました。外国での戦争と、国内での公民権闘争によって、行動することを強いられていた若者たちの感性から、《ミサ》が影響を受けていることは確かです。

レナードが一番、指揮したかったのはどのオーケストラだったのですか? コンサートの準備はどのようにやっていたのですか? 演奏がレコードになる時や、LPを制作するためにスタジオにいる時には、準備の仕方が違っていたのですか?

ジェイミー:長年指揮してきたニューヨーク・フィルハーモニックが「ホーム・チーム」でしたが、世界中が知っている通り、ウィーン・フィルハーモニックとも特別な関係がありました。他にも、殆ど毎年、夏にタングルウッドで指揮していたボストン・シンフォニーやイスラエル・フィルハーモニックも好きでした。

アレクサンダー:お気に入りのオーケストラはいろいろありました。理由もいろいろです。もちろん、ニューヨーク・フィルハーモニックは音楽監督まで務めた「彼の」オーケストラです。ボストン・シンフォニーは父の「ホームタウン」オーケストラで----タングルウッドのこっちはセルゲイ・クーセヴィツキーのオーケストラですね----ウィーン・フィルハーモニック…。こことは最初はぎくしゃくしてたのですが、そのうち本気の恋になりました。最高の演奏のいくつかはこのオーケストラとやりました。イスラエル・フィルハーモニックは1948年よりも前に、まだパレスチナ・オーケストラという名前だった頃に指揮しました。たくさんの歴史があります。学生オーケストラともね。父は若いミュージシャンと演奏する時が一番幸せでした。

ニーナ:父はこの手の質問を、どの子が一番好きか選べって言われるようなものだって言って、うまくごまかしていました。如才のない回答ですね。でも、実際、父は全てのオーケストラを平等に愛していました。作曲家に関しては、マーラーとの相性は有名ですね。他にもコープランド、ストラヴィンスキー、プロコフィエフが得意でした。

 


自分の作品ではどれを一番気に入っていましたか? 他の人の作品ではどんなものを気に入っていましたか? レナードが好きだった現代、過去の作曲家は誰ですか?

アレクサンダー:「一番好きなもの」は選ぶことが出来ませんでした。一番好きな子は誰?って訊かれるのと同じだって言ってました。「今この瞬間に指揮しているものだ」と答えることもありました。自分の作品であれ他の人の作品であれね。好きな作曲家はハイドンからセロニアス・モンク、マーラー、アーヴィング・バーリン、ストラヴィンスキーまで、全領域に渡っていました。現代の作曲家ではアーロン・コープランド、ルーカス・フォス、ネッド・ロアムが好きでした。

ジェイミー:グスタフ・マーラーの大ファンかつ代弁者だったのは有名ですね。父はあのオーストリアの作曲家には神秘的なほどの縁を感じていました。音楽面からだけではありません。マーラーもニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者だったんですよ。短い間でしたが。何十年もの間マーラーに背を向けていたウィーン・フィルに、再びマーラーを取り上げさせたのは父です。ウィーン・フィルとレコーディングしたマーラーの交響曲は、父の人生最大の業績です。

バーンスタインの作品のうち、どれが現代の人間にも感銘を与え、今後の時の試練にも耐えうると思いますか? 人々のレーダーに引っかかってなくて、もっと注目されてしかるべきと感じる作品はありますか?

ジェイミー:《ウエスト・サイド物語》は永遠に愛され続けるでしょう。皆、同意見だと思います。《キャンディード》はミュージカル・ファンにもオペラ・ファンにも愛されていて、100周年の期間中には世界中で驚くほどたくさんの回数上演されます。オーケストラ作品は知名度が下がりますが、《セレナード》は再発見されてきています。これは私が大好きな曲です。《前奏曲、フーガとリフ》というジャズに影響を受けた作品も好きです。

アレクサンダー:全作品が時間を超越した存在だと思います。《ワンダフル・タウン》といった「古臭い」曲でさえ、何度聞いてもフレッシュです。《セレナード》はもっと注目されてもいいでしょう。《静かな場所》(オペラ作品)もです。《ミサ》は遂に理解されるようになりました。バーンスタイン・バージョンの『ピーター・パン』の曲も好きですね。

ニーナ:100周年イベントの期間に《ミサ》がたくさん演奏されることになり、嬉しいです。この作品には苦渋の時期がありました。《ミサ》は音楽的にもテーマ的にも時代を先取りし過ぎていたと、私たちは思っています。当時はジャンルをミックスする人はいませんでした。今でもそんなにたくさんいないですけどね。当時としてはラジカルだったんです。物語形式でない点もラジカルでした。この作品はカトリックの典礼に従ってはいましたが、それ以外の点では、若い司祭が、落ち着かず、あれこれ要求の多い会衆に対する責任の重みにつぶされかかってるというのが、唯一の「物語」でした。
 壮大な規模の作品です。オーケストラ、マーチング・バンド、ロック・バンド、ブルース・バンド、少年合唱隊、大人の合唱隊、「ストリート」の合唱隊、そして、ダンサーも必要です。たくさんの人にギャラを払わなければなりません。そんな作品が上演されるというのは、プロデューサーたちが一般ウケするほうに賭けているってことですから、とても嬉しいです。

レナードにとって特に大変だった作品はどれですか? そういうハードルをどう乗り越えていたのですか?

アレクサンダー:あまりに大変でハードルを乗り越えることが出来なかったミュージカル用のコラボレーションもありましたよ。《ザ・スキン・オブ・アワ・ティース》《ジ・イクセプション・アンド・ザ・ルール/ザ・レース・トゥ・ウルガ》は心が折れていましたね。こうした失敗の後、再び指揮を始めることが出来たのは神の賜物でした。《ペンシルヴェニア通り1600番地》は産みの苦しみをたくさん味わった作品でした。でも、作品全てにそれぞれ異なる困難があって、それぞれ違うやり方でそれを克服したのだと思います。

ニーナ:コンサートの映像を見ていて最も面白いのは、ピアノ協奏曲では父がピアノを弾きながら指揮をしていることです。もの凄い技です。でも、1970年代からピアノに関する自信が衰え始めてきたのです。指の動きが鈍くなってきたって言ってました。それで、ニューヨーク・フィルハーモニックとモーツァルトのピアノ協奏曲を2曲ほどやったのを最後に「弾き振り」からは撤退しました。



晩年に、やりたいと思っていたものの、亡くなるまでに間に合わなかったことはありますか?

ジェイミー:最後の10年間は、ホロコーストについて取り上げたオペラを一緒に作ってくれるコラボレーターを見つけようと頑張っていました。実現しませんでしたけどね。

アレクサンダー:亡くなる前に、ホロコーストに関する作品をどうやったら作れるか、模索していました。

ニーナ:ホロコーストに関するオペラを書きたいという強い希望を持っていました。他言語で歌われるオペラをです。でも、台本作家が見つからないまま、時間切れになってしまいました。

レナード・バーンスタインが皆さんに残した最大のアドバイスって何でしょう? 創造性についてとか、音楽についてとか…。

ジェイミー:「思い出を大切にしなさい」とはよく言われました。それが、私が回想録を書き上げた理由と関係があるのかもしれません。回想録は来年、ハーパー・コリンズ社から出ます。

アレクサンダー:私はミュージシャンではありませんが、音楽を好きになることは父から教え込まれました。あらゆる種類の音楽をです。父は創造性というものをよく理解していて、すぐに答えが出ない質問をしてきました。これが一生かかってやる学習にとって大切なことだからでしょう。演奏/仕事/楽しみは全部ひとつなのです。父は音楽を作るのは孤独な活動ではないと心から思っていました。音楽は人生の他の全ての部分と繋がっているのです。他の芸術とも、教育、学習とも、政治とも、人と人の間に橋を架けることとも繋がっているのです。

ニーナ:私が父からはっきり聞いたことかどうかはわかりませんし、父の人生が生き方のお手本になるかどうかもわかりませんが、「聞く時は積極的に、読む時は批判的に、探すなら真実を、愛す時は情熱的に、分け与える時は気前よく、いたるところで美を見出せ」が父のアドバイスだったと思います。

● このアドバイスをしっかり聞きましたか?

アレクサンダー:いろんな点でイエスです。教育に関する限りはね。それから、社会正義に関しても。

ニーナ:しっかり聞けたと思いたいです。

全てのジャンルの新人アーティストには皆さんはどんなアドバイスをしますか? 特に、将来クラシックの道に進みたいという人には、どんなアドバイスをしたいですか? 皆さんのお父上だったら、新人アーティストにどんなアドバイスをするでしょうか?

ジェイミー:20世紀半ばには、いわゆる「クラシック」の作曲家は12音階の音楽----つまり、何調でもない、メロディーもない曲です----しか書いてはいけないことになっていました。父は12音階の手法を完璧に使いこなす能力を持っていて、それをところどころで使ってはしたが、全部をそれで作曲することは拒みました。メロディーを書くことが好きで、しかも、それが得意だったからです。でも、メロディーを書くのをやめるのを拒否したせいで、音楽アカデミーの世界からは死ぬまで拒絶されました。やめていれば、その殿堂に入れてもらえたかもしれませんが、父はメロディーを書くことを絶対にやめませんでした。20世紀が昔になった今、「クラシック」はもはや12音階という拘束服は着ておらず、レナード・バーンスタインの音楽が日に日に認められれるようになってきています。なので、努力奮闘している若いアーティストには、偉い連中に負けるな、自分のやり方を信じてるんだったらそれを捨てるなと言いたいです。

アレクサンダー:父は「世界の中で音楽を作れ」と言いました。つまり、孤立してはいけない、教えろ、自分の芸術活動の外側の世界を知れ、いろんなものを読め、文を書け、コミュニケーションをはかれ、人を愛せってことです。

ニーナ:アドバイスは以上のこと全部ですね。クラシックのミュージシャンにはとても辛い時期でしょう。ファンにとっても、音楽を聞くには長時間の集中力が必要です。『青少年コンサート』のDVDを見れば、若い耳を鍛えることが出来るでしょうが、長時間の未編集の「無味乾燥」の講義の入ってる番組を見るには、どんなに集中力があっても足りないでしょう。
 父が生きていたら、コンサートに足を運ぶ人が減少していることにうろたえるかもしれません。でも、クラシック音楽の道を進もうとしている人に、父は言うでしょう。プラスαの情熱を持って演奏することでこのトレンドをひっくり返せって。 「エル・システマ」プロジェクト(子供のための音楽教育プロジェクト)が世界中で定着していることを知ったら、父は喜んだことでしょう。これに関しては、ジェイミーが詳しいことを教えてくれますよ。



皆さんは、今はどんなプロジェクトを行なっているのですか?

ジェイミー:私の本が来年出ます。

アレクサンダーアートフル・ラーニングです。芸術とその諸プロセスがあらゆる学習の中心であるという父のヴィジョンは、今や、アメリカ中の学校で実践されています。学生も教師もとても熱心に取り組み、内容を深く理解しています。テストの点数もアップし、素晴らしいデータが得られていますが、私に言わせれば、やっと数字に表れてきたという感じです。

生誕100周年イベントの中で一番楽しみにしているのは何ですか?

ジェイミー: グラミー・ミュージアムによるレナード・バーンスタインに関する巡回展です。9月半ばに、まずケネディー・センターで行なわれます。待ちきれません。それから、ロサンゼルスでグスターヴォ・ドゥダメルが《ミサ》を指揮します。

アレクサンダー:選べませんよ。ミュージカルやバレーが新しいプロダクションで上演されるし、交響曲も演奏されるし…。

ニーナ:私はグラミーのバーンスタイン展が楽しみです。私はクララおばさんのピアノは見たことがありません。全ての始まりを作った伝説のアップライト・ピアノです。父に関するFBI資料もあるそうです。それから《ウエスト・サイド物語》のカラオケ・ルームも。


The original article “Leonard Bernstein's 99th: Conversations With Jamie Bernstein, Alexander Bernstein, And Nina Bernstein-Simmons” by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/entry/leonard-bernsteins-99th-conversations-with-jamie_us_599ee5bde4b0a62d0987ad3f
Reprinted by permission
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2017年09月01日

デイヴ・デクスター:イギリスのバンドを却下しまくったキャピトル重役

 ビートルズはイギリスで大ブレイクした後でも、アメリカでは大手のキャピトル・レコードからすんなりレコードを出してもらえず、最初の数枚のシングルやLPはいくつかのマイナー・レーベルから出ていたのは有名な話ですが、ビートルズをボツにしていたA&Rマンが、他のイギリスのアーティストも冷たく却下していたというのは興味深いです。この人は坂本九の〈上を向いて歩こう〉をアメリカで発売して大ヒットさせたということで、我が国ではその「英断」が高く評価されている人物なのですが、最近、公開となった資料をもとに、今回紹介するような辛口の記事が書かれています。



参考資料:デイヴ・デクスターを高く評価している日本のネット記事
・イギリスのザ・ビートルズを袖にして、日本の坂本九氏の「上を向いて歩こう」を選び、1963年見事!全米No1に輝かせたデイブ・デクスター・ジュニア
http://k-unit.seesaa.net/article/421699605.html
・「抱きしめたい」を聞いた瞬間、ビートルズ拒否から快諾に転じたデイブ・デクスター・ジュニア
http://www.tapthepop.net/day/8470
・ビジネスマンというよりは物静かな学者タイプだった石坂範一郎〜偉大なミュージックマンにして東芝レコードの実質的な創始者(デクスターが来日したことに言及)
https://entertainmentstation.jp/57378


  







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