2018年12月03日

瀕死状態のバングラデッシュ・ロック

 毎年4月に池袋西口公園にたくさんの在日バングラデッシュ人が集まって「ボイシャキメラ」という新年を祝う祭りを行なうようになって久しいですが(ウェストゲートパークがダッカの雑踏と化す)、平均的音楽ファンの間ではバングラデッシュというと「バングラデッシュのコンサート」と「バウル」で認識がストップしてしまっているのではないでしょうか。そういう自分に対して、それじゃいけないよなという自戒を込めて、この記事を紹介します。



瀕死状態のバングラデッシュ・ロック
文:ムバシャール・ハサン


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「バングラデッシュでロック・ミュージシャンとして生きていくのは超大変だよ」----サミール・ハフィズ(ヘヴィーメタル・バンド、ウォーフェイズのギタリスト)

 イスラム教徒が多数を占めるバングラデッシュにロックンロール文化の種が蒔かれたのは、1971年にこの国が誕生した時だ。パキスタンからの独立戦争後のことだった。
 20世紀の大部分の間、この地域は南アジアの昔ながらの農業社会であり、ここで流れている音楽といえば、タブラやハーモニウム、エクタラという1弦ギター等の楽器をフィーチャーしたベンガル地方のフォーク音楽だった。
 その後、自由を求めた激しい闘争が起こった。筆者がバングラデッシュ史を研究してわかったのは、この政治的な反乱のおかげで、音楽的な反乱もこの地に根をおろしたということだった。

ロックが社会の変化に拍車をかけた

 独立後、少数のバングラデッシュ人ミュージシャンが芸術的刺激を求めて西洋に目を向け、ジミ・ヘンドリクス、ジョージ・ハリスン、ザ・ドアーズを聞き始めたのだが、その筆頭が、かつては自由を求めて戦った戦士で、その後、ミュージシャンに転身したアザム・カーンだった。
 カーンのバンド、ウッチャロンはバングラデッシュの音楽の中にドラム、ギター、キーボードを導入して演奏した。バングラデッシュの音楽ファンにとっては前代未聞の音だった。長髪にベルボトム・ジーンズという格好でスタジアムでコンサートを行ない、しばしば社会的・政治的メッセージのこもった強力な歌詞を歌うカーンは、ポップ文化を代表する人気アーティストになった。
 カーンは1970年代の有名な曲〈Bangladesh〉の中で、誕生したばかりの若き国家の、貧困と飢餓に苦しむ厳しい現状を描いている。「線路の近くのスラムで生まれた少年が亡くなり、絶望した母親は泣いてばかり」という内容の歌詞と、メランコリックなギターが印象的なこの曲で、カーンは時折「オー・バングラデッシュ!」と叫びながら、建国初期のバングラデッシュの自暴自棄状態を歌っている。
 カーンは2011年に亡くなったが、国の伝統に批判的な目を向けるよう、若い世代のバングラデッシュ人を感化した人物だった。


1970年代にバングラデッシュにロックをもたらした故アザム・カーンの2005年の演奏


 1960年代のアメリカにおいて、人種や宗教、性に関する文化的価値観を変えるのにロック音楽が一役を担ったように、アザム・カーン全盛期のバングラデッシュのロックンロールは、人々に今までとは異なるライフスタイルが可能であることを示した。
 1980年代にカーンのコンサートを見たことのある人物が、筆者のインタビューに答えてこう語った。「カーンは保守的な文化に対する反逆者でした」 この人は伝統的なベンガル・スタイルの服装をやめてジーンズを穿くようになった。「アザム・カーンがジーンズを穿いてるのを見たからです」
 カーンの影響は芸術にとどまらなかった。
 同じ人物はこうも語った。「カーンはバングラデッシュの文化の既成概念を破り、自由という進歩的価値観を広めました。保守的な価値観からの自由です」
 別のファンも言う。「私たちは政治意識に目覚めていきました」

バングラデッシュ・ロックは文化のメインストリームに

 独立して間もない頃のバングラデッシュでは、政治意識を持つことは破壊活動とイコールと見なされた。
 1980年代〜1990年代を通じて、政府は軍事政権、非リベラルな民主主義政権、独裁政権と揺れ動いた。そして、地方の発展にともなって経済成長も促されたが、1990年代前半の時点でもまだ、バングラデッシュ国民の41パーセントが極貧生活を送っていた。
 バングラデッシュは政教分離の国家として作られたが、サウジアラビアとイラン、エジプトで暮らすイスラム教徒数の合計よりも多くのムスリム人口を抱えており、1988年にはイスラム教を国教と定めた。
 この決定が2016年に最高裁でも支持されると、バングラデッシュは社会的にも宗教的にも保守化が進んでしまった。
 ロック文化は、政府に対する批判が奨励され、信仰熱心であるのは格好良くないとされる、ある種、オルタナティヴな世界だった。
 1990年代に、ガンズ&ローゼズ、ピンク・フロイド、エアロスミスがバングラデッシュで人気が出てくると、ロックストラータ(メタルのパイオニア)やウォーフェイズ(ハードロック)、ラヴ・ランズ・ブラインド(ポップス)をはじめ、英語の名前を持ったバンドが多数登場し、長髪にTシャツ、チェーンのネックレスという出で立ちのファンでいっぱいのスタジアムで演奏した。

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バングラデッシュのバンド、ロックストラータ(1985年)
Mahbub19702002/Wikipedia, CC BY-SA


 音楽の演奏が歴史的に静かでおとなしく、統制の取れていた国では、これは革命的な現象だった。
 ロック・コンサートは大音量だった。ファンはタバコを吸い、ヘッドバンギングし、喧嘩もした。この国のアーティストも、アメリカやイギリスのアーティストほど激しくはなかったが、酒やマリファナ、他のドラッグを用いた。

ロック・デモクラシー

 バングラデッシュの経済が1990年代後半に世界に門戸を開き、衣類の輸出が増え、ハリウッド映画や高級車が入ってくるようになると、格差も急速に拡大した。特に、急速に発展を遂げていた都市部では、新たに富が蓄積される一方で、貧困は依然として残っていた。
 バングラデッシュのロック・ミュージシャンたちは、こうした不均衡を厳しく批判するようになった。
 メタル・バンド、ウォーフェイズは、1998年のヒット曲〈Dhushor Manchitro〉(「消えた地図」の意)で、「毎日、ストリートに死体が転がる横を、横柄なブルーのメルセデスが通り過ぎていく」「民主主義が不正にウィンクしている」という「絶望の時代」を歌っている。
 1997年のトラック〈Gonotontro〉(「民主主義」の意)では、シンガーのマクスード・オダカはバングラデッシュの民主主義を「憲法で認められたごろつき主義」と呼んでいる。ロック・アーティストたちは勢いを増す宗教的保守主義にも異を唱えた。
 反戦歌〈Parwardigar〉のビデオは、マクスード・オダカの過激派に反対するメッセージから始まり、テロ攻撃や平和集会の映像をバックに「盲目的狂信者や原理主義者たちにオレたちの未来を奪うことは出来ない」と主張している。



バングラデッシュ・ロックの衰退

 以来、社会問題、経済問題の大部分は悪化するばかりである。
 2008年に政権に就いたシェイク・ハシナ首相は経済発展を押し進めており、現在、バングラデッシュは製造業の中心地となり、経済は急速に発展している。経済面では良いニュースがあるが、ハシナ政権は国内においては反対意見を弾圧している。
 昨年、政府を遠慮なく批判した2人の人物----写真家のシャヒドゥル・アラムと社会学者のマイドゥル・イスラーム教授----が「反政府的プロパガンダと誤情報の宣伝」の廉で投獄されているのだ。ちなみに、この罪では最高14年の懲役が課せられることになっている。
 国際人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチはハシナ政権に反政府活動家に対する恣意的な逮捕をやめるよう求めている。バングラデッシュの刑務所には「破壊活動」の罪で投獄されている人が数千人いるとも報じられている。
 宗教的過激主義もバングラデッシュで勢力を増してきている。2013年以来、非宗教的なブロガーやアーティスト、宗教的マイノリティー、自由思想家が暴力的攻撃を受ける事件が相次いでいることは、国民の自由と発言の許容度が狭まってきている証拠である。

音楽が死んだ時代

 かつて、バングラデッシュ国民はロックを抗議の音楽として用いた。しかし、現状では、ロック文化は消えつつある。理由の1つは、隣国インドから入ってくるボリウッド音楽にお株を奪われたことだろう。ボリウッド音楽の人生と愛を賛美する色鮮やかなパワー・アンセムがバングラデッシュのラジオを席巻し、その海賊版もインターネット上で無料で手に入る。一方、反抗の音楽としては、ロックは新たに誕生したアンダーグランドなヒップホップ・シーンに、すっかり取って代わられてしまっている。
 国内の法律も、かつてバングラデッシュの活気に満ちたロックシーンを牽引していたアーティストの利益を保護するようにはなっていない。業界関係者が言うには、バングラデッシュの音楽のうち、合法的に購入されたものは全体の10%ほどであり、音楽の海賊行為によって年間1億8000万USドルの損失があると見積もられている。
 「知的財産権や印税といった概念は、オレたちの文化にしっかりとは浸透してない」とウォーフェイズのギタリスト、サミール・ハーフィズは筆者に語った。「バングラデッシュでロック・ミュージシャンとして生きてくのは超大変だよ」
 西洋のものは全て拒否し、伝統的な生活スタイルを是とする宗教的原理主義も、バングラデッシュのロック・シーンに打撃を与えている。筆者がインタビューしたイスラム教徒の若者の中には、ロックンロールを罪と見なす者もいた。
 かつてはバングラデッシュの変革に貢献したというのに、今や、ロック・ミュージックに残されている余地は殆どない。


The original article "Rock'n'roll is dying in Bangladesh" by Mubashar Hasan
http://theconversation.com/rock-n-roll-is-dying-in-bangladesh-106967?utm_source=facebook&utm_medium=facebookbutton&fbclid=IwAR3GUD9dVOmjRXRWUjoXzpv6zDsVh_iMhniGWzRIqQyindolx8ckJnnJrTo
Reprinted by permission

   
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2018年12月02日

イジー・ヤングのフォークロア・センター閉鎖

 11月末に悲しい知らせが届きました:

イジー・ヤングのフォークロア・センター閉鎖
2018年11月26日

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Foto David Appelgren

 世界で最も重要な音楽発信地の1つであるフォークロア・センターは、伝説の人物、イジー・ヤングによって60年以上に渡って運営されてきたが、今月(11月)末、正式に幕を閉じる。
 フォークロア・センターはグリニッジヴィレッジのフォーク・シーンの中心であり、かつて常連だったボブ・ディランはここを「アメリカのフォーク・ミュージックの拠点」と呼んだ。
 イスラエル・「イジー」・ヤングは1957年にニューヨーク・シティーでフォークロア・センターを開設し、1973年にスウェーデンに移住した際には、ストックホルムでフォルクロル・セントラム(スウェーデン語に直訳)をオープン。以来、イジーは今年までこのセンターを維持、運営してきた。
 イジーは今年、フォルクロル・セントラムで90歳のの誕生日を祝ったが、その時点ではまだ、毎日「店{ストア}」の鍵を開けて、60年間ずっとやってきたのと同じように定期的にコンサートを主催していた。
 しかし、イジーが高齢であることから、11月末日を持ってセンターは閉じることになった。
 イジーの娘で、スウェーデンで女優として活躍しているフィロメーネ ・グランディンは、過去数ヶ月間をかけて、イジーが集めてきたフォーク音楽に関する大量の蔵書の目録を作成し、箱詰めをしてきた。興味を持ってくれている団体に、約2,000冊の本をまとめて売却したいという希望があるのだが、スウェーデン語で書かれた書籍については、既にスウェーデン北部のマナミネ博物館が新たな保管先となっている。
 「父が最後の瞬間まで店{ストア}を開けることが出来て、本当に良かったと思います」とフィロメーネは語る。「今年の春も父はまだ店{ストア}でコンサートを開き、5月には自作の詩の朗読会までやりました。ここを閉鎖するのは寂しいです。ここでは今までずっと美しい時間が流れていました。たくさんの愛と音楽があって、父が今でもそれに取り囲まれているのを見るのは素敵なことです」
 ニューヨーク・シティーのグリニッジヴィレッジの真ん中のマクドゥーガル・ストリート110番地に、イジーが最初のフォークロア・センターを開いたのは、1957年4月7日のことだった。ここは間もなく、ヴィレッジの中の1つの店という枠にとどまらず、ウディー・ガスリーやピート・シーガーといった1940年代のシンガーが開始し、1960年代にピークを迎えたアメリカのフォーク・ミュージック・リヴァイヴァルの事実上の本部となった。
 イジーのフォークロア・センターでは、楽器やレコード、楽譜や書籍等、音楽関連のあらゆるものが売られていた。また、ここで定期的にコンサートも開催されていたが、センターの主な役割は、1950年代後半〜1960年代前半にニューヨーク・シティーのフォーク・シーンで活躍していた主要なプレイヤーたちのためのクラブハウスとなっていたことだった。イジーはボブ・ディランをはじめ、多数のこうした人々と出会い、知り合いになった。
 イジーはディランを初期から応援しており、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーショップのレベルを越えたところで行なわれた初のメジャーな公演を運営したのもイジーだった。1961年11月にカーネギー・ホールのチャプター・ホールで行なわれたこのコンサートで、イジーはディランと入場料収入を50:50の割合で折半したが、このポリシーは彼が主催するあらゆるコンサートで貫かれた。
 イジーとディランはこの期間に友人同士になり、ディランは2004年に発表した自伝『Chronicles』では数ページを割いて、イジーとフォークロア・センターについて楽しく語り、センターを「アメリカのフォーク・ミュージックの拠点」と呼んでいた。2016年のノーベル文学賞がディランに決定した際には、イジーはディランのキャリア最初期において果たした役割を認められて、その授賞式に出席者として招かれた。
 駆け出しの時期にフォークロア・センターでプレイした有名ミュージシャンには、他にも、ピーター・ポール&マリー、ラヴィン・スピーンフルのジョン・セバスチャン(イジーはセバスチャンの初期のバンドの1つのマネージャーだった)、ジョニ・ミッチェル、エミルー・ハリス、ティム・バックリーらがいる。数年前には、バックリーが1967年にフォークロア・センターで録音したライヴ・アルバムがリリースされている。パティー・スミスもここでよくポエトリー・リディングを行ない、イジーとは友人同士だ。
 1973年にイジーはスウェーデンのストックホルムに居を移し、フォルクロル・セントラムという名前で店を再開した。最初は何度も場所を変えながらの運営だったが、1980年代にゼーデルマルムというヒップなエリアに来てからは、今月に閉鎖されるまで他所に移ることはなかった。
 イジーはスウェーデンのフォルクロル・セントラムもニューヨーク時代と同じやり方で運営を続け、ここを地元のミュージシャンのコンサートを開催し、自分の詩を朗読し、スウェーデンのフォーク音楽のカタログを作成する拠点として使った。スウェーデンのフォーク・ミュージック・シーンを紹介・宣伝すたカタログは、何千人もの購読者に届けられた。
 セントラムではイジーの主催で、ビート詩人のアレン・ギンズバーグ等、アメリカ時代の友人たちの公演も行なわれた。壁に堂々と掛かっている「ファーザー・デス・ブルース」の手稿は、ギンズバーグからプレゼントされたものだ。また、親友であり尊敬の対象でもあったピート・シーガー等のミュージシャンがストックホルムに来た際には、コンサートのプロモートも行なった。
 イジーは自分の情熱を実現するための資金作りに常に苦労していたが、数年前には1960年代にディランに書いてもらった2曲の歌を個人のコレクターに売却した。ディランの書いた歌の1つは〈Talking Folklore Center〉というタイトルだった。
 詩を買い取ってもらった他、イジーの人生、アメリカのフォーク・シーンと、そこで活躍した有名な人々、歴代のフォークロア・センターでの出来事が記録されている個人的な日記、業務日誌、ノート、スクラップ帳、写真、レコーディングをアメリカ議会図書館が購入してくれたおかげで、イジーは引退までフォルクロル・セントラムの運営を継続することが出来た。
 現在、イジーは自宅のほうでたくさんの友人の訪問を受けている。その多くは長年に渡ってフォルクロル・セントラムに定期的に出演していたミュージシャンだが、彼らが1曲披露するやいなや、イジー・ヤングの自宅が最新バージョンのフォークロア・センターに変わることになるのだろう。


 2017年4月にボブ・ディランのストックホルム公演を見に行った際、フォルクロル・セントラムにも寄りました。ストックホルムのレコード屋リポートは帰国後間もないうちに書きましたが、セントルムのほうは今まで書く機会を逸し、写真もKindleの中にたまったままになってたので、これを機会に皆さんと共有したいと思います。
 フォルクロル・セントラムは地下鉄のTセントラレン(ストックホルム中央駅)から緑か赤の線に乗って2つ目(ガムラスタン駅の次)、スラッセン駅から歩いて7〜8分のところにありました。

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[googlemapより]

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[外側から]

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[窓にはこんなものが]

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[内部の壁には謎の地図が…]


 4月1日午後に行った時には誰もいませんでしたが、3日の昼過ぎにもう1度行ったところ、イジー・ヤングと地元のシンガーがいて、一緒にユダヤの煎餅(インドのパパドからスパイスを抜いたような感じの食べ物で、SPレコードくらいの大きさ)をかじっていました。アポなし訪問にもかかわらず、「キミもいかが?」とこの煎餅をすすめられ、一緒にポリポリやってると(しょっぱくもなく甘くもなく、ぶっちゃけ、あまりおいしくない)、ポスターを売りながらボブのツアーの追ッカケをしてるオジサン、オバサンが登場。自分たちが売ってるポスターをイジーに進呈し、イジーの許可を得て壁に貼りました。

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[このドレッドヘア、日本でもおなじみ。隣のオジサンも]


 ドアから入って左手奥には壁一面を占める本棚があり、アメリカやヨーロッパのフォーク・ミュージックに関する本がびっしり。右上はボブ・ディランのコーナーでした。数十冊あったディラン関連本の中には『Dylanologists』も。その最後の方のページに、私の名前が協力者として載ってることをイジーに伝えると、「キミの名前のところにペンで下線を引いて付箋をはっておいてくれ」とのこと。私が訪問した頃にはもう、蔵書の売却先を探し始めていたのですが、「●●に決まりかけてたんだけど、話がなくなっちゃった」「フォーク音楽に関してこれだけまとまったコレクションなんてなかなかないのに、誰も興味を持ってくれない」と、思うようにはいってないようでした。

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[ディラン本コーナー]


 ディランの数々のバイオグラフィーからは、かつてエレクトリック化を快く思わなかったフォーク人脈の人々は、ディランと仲が悪くなり、まとめてバッサリ切り捨てられたような感を受けますが、実際にはそうではないようです。例の「ニューポートではケーブルを斧で切ろうと思った」発言で有名なピート・シーガーは、晩年までディランとは時々電話で話す仲でした。イジーも「(4月の)コンサートは見に行ったよ。(ボブは)こっちに来るたびに律儀にコンサートに招待してくれるんだ」という関係だそうです。ボブが欠席したノーベル賞授賞式の客席にはタキシードに身を包んだイジーの姿がありました。仲が悪かったらこんなことはありません。

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[ノーベル賞博物館で流れているビデオから]


 そもそも、ストックホルムに移り住んで30年以上経ったら、ディランがノーベル賞を受賞しにここに来たなんて、本当に偶然でしょうが、イジーはもの凄い強運と優れた先見の明の持ち主とも言えます。駆け出しの頃と巨匠が名声を極めた瞬間の両方に立ち会っているのですから。
 セントラム閉鎖は寂しいですが、どこへ行っても千客万来で才能のあるミュージシャンを応援し、活動の場を提供してきたイジーの功績は、音楽の歴史において決して小さくはありません。1時間あまりですが会って楽しくお話をするチャンスに巡り会えて、私は大変光栄に思います。


2019年2月6日追記
 2月4日にお亡くなりになったようです。RIP



   
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2018年11月20日

ポール死亡説便乗ソングが全部まとめてYouTubeに

 つい先日、ジョー・ペリー死亡説リンゴ入院説が流れましたが、当然ガセです。
 そんな中、YouTubeにポール死亡説便乗ソングが全部まとめてアップされているのを発見したので、ここにリンクを貼っておきます(2012年にアップされていて、これまでに約3,000回再生)。『ポール・マッカートニー死亡説大全』の「第27章 10月29日(水):死亡説便乗ソングあれこれ」と「第31章 5月:デトロイトでリリースされた謎の曲」で紹介されている曲は全部網羅されています。先日50周年記念箱物行政がリリースされた《The Beatles: White Album》はポール死亡説ソングだらけなのですが、そういう視点では全然盛り上がってなくて残念です。



INTRO 0:00
Saint Paul by Terry Knight 0:45
(The Legend Of) William & Mary by Terry Knight 6:40
We're All Paul Bearers (Pt.1) by Zacherias & The Tree People 11:19
We're All Paul Bearers (Pt.2) by Zacherias & The Tree People 14:35
Brother Paul by Billy Shears & The All Americans 17:53
Message To Seymour by Billy Shears & The All Americans 20:51
So Long Paul by Werbley Finster 23:08
Here Comes Werbley by Werbley Finster 26:31
Ballad Of Paul by The Mystery Tour 28:54
Ballad Of Paul (Follow The Bouncing Ball) by The Mystery Tour 33:37
OUTRO 38:21

  
 
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2018年11月05日

《More Blood More Tracks》第一印象

 11月3日(土)に、LOFTグループが歌舞伎町に新たにオープンしたROCK CAFEで行なわれたヨーコ・オノの新譜《War Zone》発売記念トーク・ショーを聞きに行きました。話のネタがヨーコなのに店内満員でまずビックリし(5日前に予約を入れた時には整理番号は12番だったので、ガラガラ状態を予想)、トークの割と前半で、私が10年ほど前にインタビューした際、1974年に来日した時のバンドメンバーをヨーコが全然覚えていなかった件も少し取り上げられて、さらにビックリ(&恐縮)。皆、何も覚えてない、人によって言ってることが違う等、記憶に関することも話題の1つでした。



 《More Blood More Tracks》のリリースに際して私が最初に思ったことも人間の記憶でした。この箱物行政リリースの予習として、《MBMT》よりも一足先にリリースされたクリントン・ヘイリン著『No One Else Could Play That Tune』や、過去に出たケヴィン・オドガード&アンディー・ギル共著『A Simple Twist Of Fate: Bob Dylan And The Making Of Blood On The Tracks』、グレン・バーガー著『Never Say No To A Rock Star』等にあらためて目を通して、アルバムについてわかったつもりになった後、11月2日の発売日から翌日にかけて《MBMT》を聞いてみてしみじみ感じたのが、記憶と事実の関係において、皆が整合性と矛盾を抱えているということです。



 先日、本ブログで紹介したミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガードはこんな発言をしています。
今回発売される《MBMT》のためにあれこれ調査を行なった人々から、私が自分の本を書く際に集めた情報に小さな矛盾があることを教えられました。当時は見たことのないセッション記録にヴォーカルをオーバーダブしたという記述があったのです。

 基本的にスタジオ・ライヴ状態でレコーディングされ、ボブのオーバーダブはハモンドやマンドリン、アコースティック・ギターのみ(〈Idiot Wind〉ではヴォーカルのパンチイン)と、『Making』本にはありました。



 6年ほど前に当ブログで、A&Rスタジオでアシスタント・エンジニアをやってたグレン・バーガーの回想『《血の轍》ニューヨーク・セッション秘話』を紹介したのですが、2年前に書籍『Never Say No To Rock Stars』が出版されてみると、一部、言ってることが違うのです(数週間前に気がつきました)。
『秘話』より
ディランは曲を指示した。「それじゃ〈Tangled Up In Blue〉をやろう。キーはGだ」
 しかし、ディランがギターを弾き始めると、コードはGではなくてAだった。…しかも、歌詞は「If you see her say hello」と、別の曲のものだった。

『Never Say No』より
ディランは曲を指示した。「〈If You See Her Say Hello〉をやろう。彼はこの曲を2度、通して演奏した。…3度目のトライの時、ディランはオープン・コードでギターを弾いていたが、歌い始めたのは別の曲、〈You're A Big Girl Now〉の歌詞とメロディーだった…。

 話としては前者のほうが圧倒的に笑えます。しかし、《MBMT》の1曲目は確かに〈If You See Her Say Hello〉ですが、ギターのキーはDであってGではありません。『Never Say No』の話のほうが今回《MBMT》で発表になったものとの整合性が高いです。最初に回想をブログで綴ってからそれを本にするまでのどこかの時点で、記憶の中で修正が起こって後者のようにしたのでしょうか。それとも、テープが回る前のマイク・リハーサルか何かの時に、前者のようなやりとりがあったのでしょうか?



 ディラン研究家のクリントン・ヘイリンも、最新の著書『No One Else』の最初の章の約半分を割いて記憶の矛盾について述べています。ベーシストのトニー・ブラウンの記憶違い、グレン・バーガーの記憶違いを指摘した後、自分の見当違いもしっかり訂正しています。



 今回、反対に、記憶が正しかったことが判明したのがペダル・スティールのバディー・ケイジです。『Making』本では〈Meet Me In The Morning〉のオーバーダブについて次のような発言が紹介されています:
[採用となるテイクの演奏直前に、ディランが]言った。「最初の5ヴァースは歌だ。お前は演奏するな。最後のヴァースは演奏だ。お前も弾け」って。…赤ランプが点いた。オレは最初の5ヴァースは軽く流したが、ボブがオレに派手に弾いて欲っした箇所は「Look at the sun…」のヴァースだった。

 この本が出た15年前から、ケイジの記憶はおかしいのではないか、「5ヴァース」ではなくて「4ヴァース」ではないかと思っていたのですが、《MBMT》Disc 2 Track 5〈Meet Me In The Morning (Take 1)〉を聞いてビックリ! 「Look at the sun…」から始まるヴァースの前に、全く聞いたことのないヴァースがあるじゃないですか! 我々がこれまで聞いていたバージョンではここが丸々、編集でカットされていたのか! ということは、ケイジは発言通り、最初の5ヴァースは軽く音を出してるだけで、6ヴァース(「Look at the sun…」)から本格的に弾き出してることになります。ケイジの記憶は正しかったのです。(『MBMT』にはOKにならなかったスティールのオーバーダブが入っています)



 私の記憶も本当に曖昧です。今の今まで、日本盤についている詳しい解説には全てが書いてあって、日本の平均的なボブ・ファンは、一部の曲をミネアポリスで録音し直したことも参加ミュージシャンの名前も、アルバムの発売当初から知っていたと思い込んでいました。私はこの件をレコードの解説を読んで知ったことだと思っていたのです。しかし、裏ジャケがオリジナルで、〈Idiot Wind〉の邦題が「白痴風」になってるLPと、数年後に出た「来日記念盤」を調べてみたら、解説では取り直しの件は簡単に触れていましたがミネアポリスとは一言も出てきません。ミュージシャンの名前もありません。それじゃ、いったい、どこでミネアポリスの件を知り得たのか? 私には全く記憶がないのです。おっかけもコレクションもしばらく前にやめた(アイドル用語では、これを「他界した」と言うそうです)私と違って、現在でもそのどっちも熱心に続けていて、夏には命がけでフジロックを見て韓国と香港にも行って、今月末にさらに家計を不正流用してニューヨーク公演に行って、現地では手に入るというボブ・ウィスキーを買ってがぶ飲みしてくると宣言してるキモヲタのオッサン(健康診断の結果が「D」判定)に質問してみたら、珍しく私の相手をしてくれて、本邦では1990年に発売された『BOB DYLAN大百科』ではないかとのこと。それより前に出た本や雑誌でミネアポリス・セッションに言及してるものは見つけられないので、これが暫定日本最古の文献としておきますが、より古いものをご存じの方は是非コメント欄にて教えてくださいませ。



 プロモ盤バージョンの〈Tangled Up In Blue〉から聞こえてくるカタカタする音は、シャツのボタンがギターのボディーに当たる音だと最初に言い出したのも誰でしたっけ? 私の頭の中ではこのへんのデータもいつの間にか常識となっていて、いつどうやって知ったのかという記憶が全くないのです。「D」判定オヤジはフィル・ラモーンが言い出したのではないかと言ってますが、どうなんでしょう?

大注目曲は〈Buckets Of Rain〉

 記憶とは関係ないのですが、《MBMT》で一番面白かった曲が〈Buckets Of Rain〉です。関係が悪化した今、あの女について気に入ってた点をあれこれ思うと、かえって惨めになるよと情けなく歌う曲ですが、ここでボブはアルバム《The Times They Are A-Changin'》以来10年ぶりに3フィンガー・ピッキングに挑んでいるのです。それをうまく決めようと躍起になり、でも、どこかでギターを間違えるか、ヴォーカルがおとなしいか、歌詞を間違えるかでOKテイクとならず、結局、採用テイクは一番いい加減に弾いて、3フィンガーらしく聞こえないものでした。しかも、完奏と同時にホッとため息まで入っています。しかし、まだフィンガー・ピッキングに未練があったようで、その後も少し挑戦しています。この一連の流れは爆笑なしでは聞けません。

9月17日
D3 Tr.10 Take 1 + bass 完奏 (2:56)
 スピードやや速。bが完全に曲をつかんでいないが、とにかく最後まで演奏。gも数カ所でミス。演奏後ボブが「I can do that better」と発言。
D3 Tr.12 Take 2 + bass 完奏 (3:20)
 「bring me misery」のヴァースを前半で歌ってしまう。

9月18日 REMAKE
D4 Tr.03 Take 1 solo INC (3:18)
 最後の最後でgを痛恨のミス。
D4 Tr.04 Take 2 solo 完奏 (3:02)
 前半はvoもgも小さくまとまってる感あり。後半voくずしすぎ。
D4 Tr.05 Take 3 solo INC (0:53)
 いきなり後半の歌詞を歌ってしまう。エンディングの練習かも。
D4 Tr.06 Take 4 solo INC (2:36)
 後半で歌詞間違い。

9月19日 REMAKE 2
D4 Tr.09 Take 1 + bass 完奏 (3:08)
 ほぼ完璧だが最後になぜか一瞬bassが小さくなる。おしい。
D4 Tr.10 Take 2 + bass INC (1:02)
 歌詞が出てこなかった
D4 Tr.11 Take 3 + bass INC (1:54)
 歌詞間違えてストップ。
D4 Tr.12 Take 4 + bass 完奏 (3:23)
 いちばん3フィンガーっぽくないギター。voが一番生き生き。最後のコードを弾いた直後に安堵(?)のため息。これが決定テイクとして《BOTT》に収録される(ため息を消すため、ちょっと早くフェイドアウト)。
D4 Tr.17 Rehearsal + bass (0:53) ギターの練習か。もっとギターをうまく決めたいという未練が感じられる。
D4 Tr.20 Take 5 + bass 完奏 (3:27) voおとなしい。Take 4ほどの鮮度はない。

 ところで、最近、箱物行政リリース多すぎです。秋に入ってグレイトフル・デッドの《Pacific Northwest '73-'74: The Complete Recordings》(19枚組)、ジョン・レノンの《Imagine : The Ultimate Collection》、ボブの《MBMT》を購入し、11月9日にはビートルズの《White Album》が出ます。正直、レノンは未消化。ボブも十分聴き込む暇ないまま《White》が出ます。ローリング・ストーンズのLP箱、ザ・バンドとジミ・ヘンドリクス、ポール・マッカートニーは知らなかったことにします。この手のリリースはレコード会社間で話し合って、半年に1セットずつ順番にリリースしてもらいたいですね。


   
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2018年10月16日

《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー

 《More Blood, More Tracks》の発売まであと2週間くらいですが、ミネアポリス・セッションに関してはアルバム採用テイクのマルチトラック・テープしか発見されなかったため、ニューヨーク・セッション中心の内容となったようです。発見されたら、改めてリリースして欲しいですね。量的にはCD3〜4枚で済むでしょう。
 付属のブックレットにどんなことが書いてあるか私には今のところ全く不明なのですが、ミネアポリス・セッションで中心的な役割を果たしていたギタリスト、ケヴィン・オドガードが、今回紹介するインタビューによると、当時、フルタイムでプロとして活躍しているミュージシャンではなかったというのは驚きです(ソロアルバムも何枚か出ていて、日本でも一部の音楽マニアに注目されているレベルなのに)。設備もスタッフも2流3流の田舎のスタジオで一体何が出来るんだ?というのが、ニューヨーク側のスタッフが、ボブがミネアポリスでレコーディングをやり直すという話を聞いた時の素直な気持ちでしょう。今回はニューヨークの人の気持ちになるとして、将来、ミネアポリス編が出た時には、今度は、こっちの参加者の並々ならぬミュージシャンシップに驚愕することになるでしょう。




《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー


 先月、ケヴィン・オドガードの最新CD《Artifacts》を入手した。その時はアルバム評でも書こうかなという軽い意図しか持っていなかったのだが、2度ほど聞いた後、私はもっとたくさんのことを知りたくなった。特に3曲目の〈Dear Friend〉に心を動かされ、魅了されてしまったからだ。この2年の間にとても親しい音楽仲間を2人も亡くしたことに触発されて書いた曲であるに違いない。この2人のミュージシャンとは、長年に渡って開催されているノースランズ・ディラン・フェストというイベントを通して出会い、私も知っている人物だ。アルバム全部に金をつぎ込みたくはないという方は、アマゾンでこのトラックだけをダウンロードしてみたらいかがだろう。サマー・オブ・ラヴを覚えている世代なら、親しい友人を少なくとも数人は亡くした経験をお持ちだろう。このトラックは凡人には表現することの出来ない何かに繋がっている。
 それはそうとして、ケヴィンは今週、エーゲ海でセイリングに興じているまっさい最中なのだが(リヴァプールに行って、キャヴァーン・クラブにも出演している)、海からあがっている間にいくつか質問に回答してくれた。
 事情に詳しくない人のために説明しておくと、ニューヨークで行なわれた《Blood On The Tracks》の最初のレコーディング・セッションの約3カ月後に、ボブ・ディランの弟、デヴィッド・ズィママンの仕切でミネアポリスで再レコーディングされたのだが、その時に集められた地元のミュージシャンのひとりがオドガードだった。既にレコーディング済みのトラックの一部に複雑な感情を抱いていたディランは、《Blonde On Blonde》の時にやったように、欲しいサウンドを獲得するのに場所を変えてやってみる価値ありと判断したのだ。
 ということで、ケヴィン・オドガードは《Blood On The Tracks》のセッションに招かれてギターをプレイした。〈Tangled Up In Blue〉のイントロのあの聞き慣れたギターを弾いているのが彼なのだ。ケヴィンはその後、自分のバンドで中西部で活動した後、ロサンゼルスに居を移してナショナル・アカデミー・オブ・ソングライターズ(NAS)の理事となり、作曲家の権利と収入の保護に尽力し、VH-1とショータイム・ネットワークで放送された『A Salute To The American Songwriter』の共同プロデューサーとなり、2004年にはアンディー・ギルとの共著『A Simple Twist Of Fate: Bob Dylan and the Making of Blood On The Tracks』を出版した。
 長年に渡る結婚生活が破綻をきたしつつある時に、心の奥底にあるものを吐き出したような作品《Blood On The Tracks》は、ディラン史上最も売れたアルバムとなったのだが、ミネアポリス・セッションが終了した頃には、10万枚分のアルバム・ジャケットが既に印刷済みだったので、セッションに参加したミュージシャンは誰ひとりとして公にはクレジットされないままになっていた。オドガードと評論家のアンディー・ギルが『Making』本を出版したのはは、事実を正しく伝えるためだった。そして、来月リリースされる《More Blood, More Tracks》で、やっと、話の全体がありのままに語られることになった。


《Blood On The Tracks》のレコーディングに参加した時、あなたは何歳だったのですか? ディランとレコーディングするという体験が、いったいどうやって転がり込んで来たのですか?

 《Blood On The Tracks》をレコーディングした時、私は24歳で、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道のブレーキマンをやってました。ずっとデヴィッド・ズィママンが私のマネージャーでしたが、ウーフ・レコードから1971年に出したファースト・アルバムは全然売れなかったので、レッド&ホワイト・タクシーのドライバーをやりながら、時々、一目置いている友人たちとギグやレコーディングの仕事をやってたんです(ミル・シティー・レコードからシングル〈Can't Turn Back/Sunshine Silver Mine〉をリリース) 。グレッグ・イノーファーは昔からの仲間だったので、1974年のクリスマスの直後にデヴィッド・ズィママンから電話があった時、真っ先にグレッグを推薦しました。他に薦めたミュージシャンはスタン・キッパーとダグ・ネルソンですが、ダメでした。リズム・セクションは既に選定済みだったんです。ビル・バーグとビリー・ピーターソンはサウンド80で引っ張りだこのミュージシャンで、素晴らしい人選だったと思います。
 ズィママンが私を選んだのは、私の母と友人だったからです。彼は私の人生の中でも母の人生の中でも特別な人物でした。私は何の変哲もないギタリストでしたが、強力なリズムの出せるギターを持っていたんですよ。ストラディヴァリに匹敵すると思います。夏にノーズ・ダコタ州メドラで夏の出稼ぎ仕事をやった後、ニューヨークのマニーズ楽器店で購入しました。ディランもここで買い物をしてますよね。このギターを手にした私は、その年の夏にメドラでスティーヴン・デラップとドクター・チャック・アンダーソンがやってたトラヴィス・ピッキングをやってみようと思い立ったのです。
 彼らはすぐに忘れられてしまうようなヒット曲を演奏してお茶を濁してたわけではありません。レパートリーは、ドック・ワトソンやミシシッピ・ジョン・ハートが守ってきたアパラチアやデルタ地方のフォーク・ブルースを、深く掘り下げたものでした。聞いていて、すっかり魅了されました。'69年の夏のことです。うっとりしながらも、私はよく観察しながら盗むという学習スタイルを実践していました。もっぱらエピフォンの安物のコンサート・モデルの12弦を使ってたのですが、それを置いて、彼らの指が弦から弦へどう動いてるのか、金属製のピックを指にはめて、何をどのタイミングでどういうふうにやってるのかを観察しました。
 今でもそういうふうに学習してます。会場からお持ち帰りというのが私の方針です。そうして、創造的な副産物がどこから生じるか、認識を新たにしていたわけです。それが私の才能となってます。そして、指先から血が出るまで練習してやっと、マーティンD-28からああいう音が出てきて恍惚感に浸れるのです。自然の中にも人間の技術の中にも、マーティンに匹敵するものはありません。騒音だらけの部屋の中で40歩離れたところからでも、目隠しテストでマーティンの音を言い当てることが出来ます。私の小さな世界の中では、今でも、マーティンは山上の予言者の声なのです。無双の存在。これからもそうでしょう。

  

 昨年、ペンシルヴァニア州ナザレスにある工場の見学に行ったのですが、この意識は2倍強くなりました。そこにいたのはアメリカを代表するギター職人たちでした。あんたの持ってる特注のオルソンを見せてくれないか、なんて言うんです。これは昔、ジェイムズ・テイラーが持ってたもので、私にとってはマーティンD-28の次に値の張るギターです。マーティンが私をボブ・ディランのレコーディングに連れてってくれたのです。〈Tangled Up In Blue〉では私のマーティンの音がはっきりと聞こえます。最高の音です。正直、今は両手とも進行性の関節炎にかかってるので、カニレアの5弦のウクレレを演奏しています。美しい楽器で、音の鳴りも優れています。ピックアップも内蔵されています、でも、一緒に墓に入りたいのはマーティンとですよ。あのマーティンの奏でるセイレンの歌(美しい歌声で船乗りを誘う海の精)が、私をディランのセッションに連れってってくれたのだと、今でも信じています。

● 『A Simple Twist of Fate』は、ミネソタのミュージシャンがアルバムに全くクレジットされてないことから、真相をはっきりさせようという意図で書かれたものですよね。あの話を書くよう、誰かから勧められたのですか? どういう経緯であの本は出たのですか?

 レコーディングから30年経った頃、ゲイリー・ダイアモンドから電話があったんです。彼は音楽業界の友人なのですが、『MOJO』誌で《Blood On The Tracks》のニューヨーク・セッションの特集記事を見つけたのです。それで、「ヘイ、ケヴィン。この話のもう半分を『MOJO』のライターのアンディー・ギルと書いてみないかい?」って、話を持ちかけてきました。その頃、私は通勤列車の運行部長で、頭の中では、人の死やディランの最近の作品、ますます大きくなるディラン伝説等、いろんなことを少しずつ意識ようになっていました。ディランは文学賞候補になったり、やることなすこと全部において巨匠扱いされるようになってきていました。私はそういうのを凄いなあと思っていたので、本の話には飛びつき、この業界で最高のスタッフを確保しました。ポール・ブレスニックは優秀な編集者です。ベン・シェイファーは優秀な出版人です。そして、作業を進めて、ある種の強力な執念、芸術のイミテーションのような人生の形に仕上げました。《Blood On The Tracks》の登場人物と同じく、私も離婚を経験し、家族や家、仕事を失ったことがありますし。



 ポール・メッツァの呼びかけで、その数年前に《Blood On The Tracks》に参加したバンドの殆どの面子を再び集めて、ファースト・アヴェニューで1度だけコンサートやったんです。その後、もう1度集まって、本の出版を記念して、'04年3月にミネアポリスのパンテージズ・シアターでフル・バンドでコンサートをやりました。音楽で初の成功を収めたのは人生絶不調の時で、立ち直るのにあと3年かかりました。本は2刷の後は常に手に入るようになりました。世間の人から注目してもらえるような自慢の種をやっと獲得することが出来たというわけです。
 今回発売される《More Blood, More Tracks》のためにあれこれ調査を行なった人々から、私が自分の本を書く際に集めた情報に小さな矛盾があることを教えられました。当時は見たことのないセッション記録にヴォーカルをオーバーダブしたという記述がありました。その記録を見て、私は夜も眠れなくなりました。問題はオーバーダブではありません。これはレコーディングのプロセスの一部です。あれから40年以上経ってるのに、私が眠れなくなってしまったのは、私がレコーディングに参加出来るように手を貸したミュージシャンのクレジットが全くなかったことなのです。グレッグ、クリス、それと、ピーター・オストルーシュコです。彼らのこともクレジットするよう、あの時、もっと強く主張しなかったことに関して、ずっと罪悪感を抱いてきました。その後、私はロサンゼルスの音楽業界で、ソングライターや映画音楽の作曲家の権利、収入、クレジットを求めた活動を数十年間やりました。デジタル時代になって、全て再交渉する必要があります。
 でも、今はもう、罪悪感に苛まれてはいません。ディランの事務所がドアを開けてくれたからです。今度はミュージシャン全員の名前を正しい綴りでクレジットしてもらえることになったからです。私はその責務、人生のミッションから解放されました。



 今のアメリカには笑いが足りません。だから、私は人生のパートナーである妻、スーザン・ケイシーと一緒に笑える本を書こうと思ってるんです。私がスーザンと出会ったのは2007年のことで、彼女は騒動のあれこれを目撃しています。音楽ビジネスは楽しいところです。これでなければダメという定型も構造もありません。私のような老いぼれが親父バンドを結成したら、それこそ面白いことになるでしょう。

《Artifacts》は強力な歌が収録されている素敵なアルバムです。オープニング曲はとても甘いスピリットを持っています。あなたが作ったアルバムは全部、こうした感じなのでしょうか? その時点でのあなたの人となりを反映したものなのでしょうか?

 本でいう、あとがきのようなものです。《Artifacts》は私にとっては締めくくりです。さまざなレコーディングを集めたもので、古いものは1971年のサウンド80までさかのぼります。友人のゲイリー・ロパックとまとめました。ビートルズとディランの雷に打たれたアメリカの少年の軌跡をたどりたい人にはお誂{あつら}えです。私を知るための人間学的作品です。



〈El Nino Suite〉の背景について詳しく教えていただけますか?

 〈El Nino Suite〉はまさに私のとっての《Blood On The Tracks》です。アメリカの労働者は自分の仕事が嫌いで、天気や死の心配ばかりして、仕事と結婚生活を失って、メキシコで漁船をチャーターして暮らす生活を選択しても、こっちも最後は悲惨です。祖父の古い木製のボートを徴用してキューバからマリエル難民の輸送に関与するのですが、最後はクジラに食われてしまうのです。全然良いものではありません。私は昔のテープをスーザン宅の地下室に入れておいたのですが、彼女はこの哀れな男のマニフェストを、箱の中に入った録音の断片から蘇らせてくれたのです。


The original article “Kevin Odegard's Artifacts Seasoned with Blood On The Tracks, Sweat and Tears” by Ed Newman
https://pioneerproductions.blogspot.com/2018/10/kevin-odergards-artifacts-seasoned-with.html
Reprinted with permission

 

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