2018年02月07日

《All-Meat Music》とウィリアム・スタウト・インタビュー

 西新宿7丁目もあれからかなり変わってしまい、今やそこを海賊盤のメッカと言う人はいません。一時期、大学受験予備校の町にもなりかけましたが、社会全体が少子化傾向ゆえ、もともと斜陽産業なので撤退が相次ぎ、今いちばんたくさんあるのはラーメン屋と美容院でしょうか。かつてKINNIEだったところは演歌と落語の専門店になっています。試しに店の中に入ってみたところ、ロックの海賊盤は本当に1枚もありませんでした。その時、私の脳内で鳴ってた曲は〈The Times They Are A-Changin'〉です。
 昔、怪しいレコード屋に行くと、怪しいイラストのジャケットの海賊盤をよく見かけましたが(私はTMoQの次のTOASTEDやPHOENIX以降の、ちゃんとアーティストの写真が印刷されてる豪華カラー・ジャケット世代なので、イラスト・ジャケは殆ど買いませんでした)、今回紹介するのは、そのイラストを描いてた人の話です。




《All-Meat Music》とウィリアム・スタウト・インタビュー

聞き手:ジェイムズ・スタッフォード



 1973年1月18日にロサンゼルスの有名なイベント会場、フォーラムで開催されたコンサートには、チーチ&チョン、サンタナ、そして、ローリング・ストーンズが登場した。奇妙な組み合わせに感じるかもしれないが、この3組には1つの理由があった。12月23日にニカラグアで大地震が発生し、死者が6千人、家を失った人が25万人に達していたので、ストーンズとサンタナ、そしてコメディー・デュオは救済活動の手助けをしたいと考えたのだ。
 ミック・ジャガーとニカラグア出身の妻、ビアンカは、滅茶苦茶に破壊された国に飛んで、ビアンカの母親を発見した。彼女は命に別状はなかったものの、家を失っていた。ミックとビアンカは、震災後、多数の死体が放置状態になっているのも目の当たりにした。サンタナは、ティンバレス・プレイヤーのチェピート・アレアスがニカラグアの出身ということが、被災者のために救援資金を集めたいという動機になった。チーチ&チョンに関しては、もともと、自分たちで「ラティーノ・フォー・ラティーノ」というチャリティーを行なう計画を立てていたので、このイベントには適任だった。チャリティー・コンサートは実際に行なわれ、被災者のために35万ドルを集めた。
 この2枚組アルバムはブートレッグの名盤の1つである。収録されている音楽もさることながら、ジャケット・アートも秀逸だからだ。これはウィリアム・スタウトという人物の作品なのだが、彼は驚くべき経歴を持っている。プレイボーイ誌で連載されていた『Little Annie Fanny』を覚えているだろうか? スタウトはそのスタッフの一員だったのだ。『Heavy Metal』の読者だったのなら、スタウトの作品に親しんでいるはずだ。カルト映画の名作『Return of the Living Dead』(邦題は『バタリアン』)は好き? スタウトはこの作品のプロダクション・デザイナーだったのだ。リストはこの後も延々と続く。この人物は気の遠くなるほどたくさんの作品を世に出している。
 アルバム・ジャケットのアートワークというと、ウィリアム・スタウトにとって、全てのきっかけがまさにそれだった。そして、Trademark Of Qualityレーベルがリリースしたレコード中で《All-Meat Music》が最重要アルバムだと私が思うのも、まさにこのアートワークがあるからなのだ。スタウト氏は慈悲深いことに、鉛筆を置いて、このアルバム・ジャケットについて、ブートレッグという陰の世界で働いていた時代について、現在携わっているプロジェクトについて語ってくれた。

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ウィリアム・スタウトが描いたブートレッグのジャケットはどのくらいあるのですか?

 42枚のアルバム・ジャケットを作ったよ。32枚はTrademark of Quality(以後TMoQ)用に、9枚はTMoQから派生したいろんな会社用に、それから1枚はLong Live the Smoking Pig用にだ(レッド・ツェッペリンの《Burn Like a Candle》)。

1970年代初頭、ブートレッガーのために働くのは普通のイラストの仕事ではなかったでしょう。どのような経緯でTMoQと手を組むことになったのですか?

 ハリウッドにあったレコード・パラダイスは、ロサンゼルスでは数少ない、輸入盤やブートレッグLPを置いてる店の1つだった。オレは少し前にいいコンサートを見たんで(記憶ではツェッペリン)、そのブートレッグLPを買うのを楽しみにしてたんだよ。何人かがショウを録音してるのを目にしてたんで、きっとブートレッグが出ると思ってたんだ。「L」のコーナーを覗いたら、それがあったんで、掴んで持ち上げた。「オー、マーン」 オレは大きな声で言った。「このジャケット、全然イケてねえぜ。誰かオレにジャケット描かせてくれよ」
 すると、ある男がオレの肩を叩き、ささやいた。「お前、ブートレッグのレコード・ジャケットを作りたいのか?」
「ああ!」
「今週の金曜の晩、8時、セルマとラス・パルマスの角にいろ」(訳者注:このあたりだ) そして、男は少し間を置いて言った。「ひとりでだ」
 オレは了承した。
 当時、セルマとラス・パルマスの交わるところは、ハリウッド界隈の中でもいかがわしい場所だった。8時ぴったりに、昔の'40年代の黒のクーペ(ウィンドウはスモークガラス)が角に寄って止まった。助手席側の窓が少し開くと、そこから1枚の紙切れが出てきたんで、オレはそれを受け取って読んだ。それには「Winter Tour 1973」って書いてあり、ローリング・ストーンズの曲のリストもあった。
 車の中の声が言った。「来週の金曜日、時間は同じだ」 窓が上がって閉まった。しかし、再び少し下がった。「ひとりでだ」
 オレは自分のアパートメントに戻って、ジャケットの作業に取りかかった。タイトルを《All-Meat Music》に変えて、ロバート・クラムが担当したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの《Cheap Thrills》のジャケットへのトリビュートみたいなデザインで、1つ1つの曲に、ストーンズの5人のメンバーをひとりずつフィーチャーしたイラストを添えた。
 次の金曜、オレは約束の時間にセルマ&ラス・パルマスの角に行った。ひとりで。同じクーペがやって来て止まった。助手席側の窓がちょっと開いたんで、その隙間にジャケットを入れた。手紙を投函するように。すると、お返しに50ドル札が出てきた。その車はまるで変てこりんなATMのようだった。そして、クーペは走り去った。
 ローリング・ストーンズの《Rolling Stones Winter Tour》(またの名は《All-Meat Music》)はコンサートの2週間後に出た。ジャケットのおかげで目立ってたね。とてもよく売れた。TMoQはさらにジャケットを注文してきた。
 やっと、ブートレッガーたちからの信頼を得て、オレは連中と顔を合わせて仕事をするようになった。やつらの本名は知らなかったけどね。オレたちは定期的にレコード・パラダイスで会った。全員、店のオーナーのロジャー&オリーとは友達だった。ブラブラするのにステキな場所だったなあ。

TMoQのブートレッグは大人気でしたが、あくまでアンダーグラウンドなレベルでの話です。ブートレッグの持つアウトロー的なイメージは、あなたのキャリアにとってプラスになりましたか、妨げになりましたか? それとも、そのどちらでもなかったのでしょうか?

 ブートレッグのジャケットを描いてた頃は、地元でちょっと有名になったこと以外は、自分のキャリアに何の影響もなかったよ。後でわかったんだけど、イギリスではもっとずっと有名になってたらしいね。何年も経った後、ウォルト・ディズニー・イマジニアリング(WDI)で働いてるティム・オノスコから電話が来て、ウォルト・ディズニー・ワールド用の大プロジェクトのチーフ・デザイナーとして、フルタイムで働いてくれないかって誘われたんだ。オレのことやオレの作品をどうやって知ったのか質問したら、主にブートレッグ・レコードのジャケットからだって言ってた。数年後には、ジミー・ペイジのカメラマン、ロス・ハルフィンからも連絡があった。TMoQのジャケットになった原画を購入したいって。ロスからこのオファーが来たのは丁度いいタイミングだった。本格的な美術の世界でキャリアを積もうとし始めてたところで、絵を描き続けるための資金が必要だったんだよ。オレはロスにTMoQ用の原画の殆どを売った。ロスに買ってもらったジャケット画もあれば、買ってもらえなかったものもある。
 ブートレッグのジャケットを担当してたことで、トラブったことはないね。ジャケット用のイラストを作ることは違法じゃなかったしさ。大手のレコード会社が発注する正規の仕事で、自分が選考の対象になってるって時には、その件は絶対に口には出さなかったけどね。

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先ほど、アルバムのタイトルを《Winter Tour 1973》から《All-Meat Music》に変更したとおっしゃってましたが、その件についてもう少し詳しく教えてください。

 ブートレッガーたちにとってはかなり不本意だったようなんだけど、オレはいつも連中のLPのタイトルを変えてしまった。笑えるやつが好きだからさ。《Winter Tour 1973》じゃおかしくないだろ。《All-Meat Music》はユーモラスだ。このタイトルならローリング・ストーンズのイメージにぴったりだ。

今日、あなたがジャケットを描いたアルバムは、TMoQがリリースした全アルバムの中でベスト作と評価されていますが、当時はそれに対してどんな反応がありましたか?

 オレが描いたジャケットに他のブートレッガー連中はかなり動揺してたよ。ジャケットのおかげでTMoQのレコードは他のブートレッグよりもかなり目立ってたからね。そいつらもオレにジャケットを作らせようとしてたけど、オレはいくつか理由があって、そういうことをやるのはTMoQとだけって決めてたんだ。TMoQの連中とはとても仲が良かった。他のブートレッガーはいかがわしくて、倫理面でも問題があるようだった。Trademark of Quality(高品質のトレードマーク)っていう名前も気に入ってたし、連中は看板に偽りなしだったと思う。オレも、リリースを重ねるごとに、こいつらの出すものがもっとプロフェッショナルなものになるよう努力した。TMoQのファン層に向けて、ちょっと遊んでもみた。自分の頭の中では、マニアックなファンやコレクター、音楽と芸術の愛好家たちに認められるようなジャケットやレコードを作ってるつもりだったんだ。
 どのジャケットにも必ずブタを登場させてたせいで、変な副産物も生まれちゃったんだよな。TMoQのロゴは辞典に載ってるようなブタのイラストだっただろ。それと、オレが破壊分子的なユーモアのセンスの持ち主だってことが、どのジャケットにもブタを登場させていた理由さ。でも、ロックンロールが超シリアスなものと受け取られるようになったおかげで、レコード・ファンの間では、オレがブタとセックスをしてるっていう噂が広まったんだよな。

ウィリアム・スタウトの世界における最新情報を教えてください。

 自分のキャリアを集大成した大型本『Fantastic Worlds of William Stout』がInsight Editions社から7月に出ることになってるんだ。音楽関係のアートに関するヴィジュアル満載の章もあるよ。最もリクエストの多い、オレの音楽関係のアート全てに関する本も書き終えたところだ。現在、画像をまとめてるところなんだ。以前に出した『Legends of the Blues』は2刷に至ってるんだけど、その第2巻『Legends of the British Blues』の作業も佳境に入ってる。第3巻は『Modern Legends of the Blues』になる予定だ。ブルース本それぞれには、肖像画が100点と、同じ数の伝記が載ってる。損得勘定なしで、好きでやってることさ。オレのウェブサイトを見に来てくれ。
 最近、作ったジャケットはバディー・ガイ、アルバート・キング、ジュニア・ウェルズ、キャット(ユスフ)・スティーヴンス、トッド・ラングレン、ザ・ナイス、エマーソン・レイク&パーマー、イギー・ポップの新リリース、それから、アライヴ・ナチュラル・サウンド・レコードの素晴らしいミュージシャンのためにLPジャケットをいくつか担当したよ。

The original article “From The Stacks: Rolling Stones, ‘All-Meat Music’ (and a William Stout Interview!)” by James Stafford
https://wimwords.com/2018/02/02/from-the-stacks-rolling-stones-all-meat-music-and-a-william-stout-interview/
Reprinted by permission


   



スタウト本人のウェブページのほうにも詳しい話が載ってます
http://www.williamstout.com/news/journal/?p=2591
http://www.williamstout.com/news/journal/?p=2599
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2018年02月04日

ボブ・ディランはインドに行ったことがない?

 約1年前の今頃、例のノーベル文学賞騒動の際に、インド発のこんなニュースが流れましたが、そんな話はでっち上げだとするサイトを発見しました。こちらのほうも、ちょっと盛ってる感のあるサイトに掲載されている記事なのですが、重要な部分だけ抄訳しておきます。文の途中ではこんなふうに(訳者のツッコミ)を入れておきました。


babu.jpeg


BABU KISHAN INSTITUTE OF MUSIC & PERFORMING ARTS - EKTARA FOUNDATION

Babu promo page

(このページには、ジョージ・ハリスンやチャーリー・ワッツ、キース・リチャーズ、ザ・バンドのメンバー、アリ・アクバル・カーン、ザキール・フセインとうつってる写真もあります)

 ボブ・ディランに「西洋のバウル」という名前を与えたのがバブー・キシャンである。インドでボブ・ディランのレコードをリリースしたのもバブーだ。バブー・キシャンなくしては、インドにおいて、ボブ・ディランが何者なのか、彼の音楽がどのようなものなのかを知る者はいないだろう。CBSインディア(後にソニーに買収される)の社長はバブー・キシャンに訊いた。「なぜ常にボブ・ディランを宣伝・販売しているのか?」と。
 バブーの回答はこうだ。「ボブ・ディランからは常に感銘を受けている。個人的に知り合いで、友人にもなった」
 バブーはボブ・ディランをインドに招聘しようとしたが、当時はスポンサーが見つからず、誰にも興味を持ってもらえなかった。バブー・キシャンはボブの詩と音楽に影響を受け、ロック・ジャーナリズムの父、アル・アロノヴィッツを通じてたびたび連絡を取っていた。アロノヴィッツは、ボブ・ディランが新人だった頃にアレン・ギンズバーグやビートルズに紹介した人物だ。

インドの「バブー・キシャン」がインド及びアジアの諸地域で宣伝販売した「ボブ・ディラン」のアルバム
https://bhavaproject.weebly.com/uploads/6/6/7/2/6672561/published/img-6918.jpg?1511742389

バブー・キシャン(クリシュネンドゥ・ダス)の名刺
https://bhavaproject.weebly.com/uploads/6/6/7/2/6672561/published/23231345-1729203317123890-6352380646149864036-n.jpg?1511742551

 ベンガル地方の人はたいてい、この町はボブ・ディランと縁があるように話すが、実際にはない。プルナ・ダス・バウルの長男、バブー・キシャン(ボリウッド・ネーム)ことクリシュネンドゥ・ダス(本名)のみが、ボブ・ディランと個人的なつきあいがある。彼の父親と叔父ラクシュマン・ダス・バウルは1967年に初めてボブ・ディランと会ったが、関係は長くは続かなかった。バブー・キシャンだけが交友関係が続き、ボブ・ディランと会うたびに、「ラクシュマン・ダス・バウルは元気か?」と訊かれた。
 ボブ・ディランとベンガルとの繋がりは、バブーの父親と故ラクシュマン・ダス・バウル、そして、バブー・キシャンがボブと知り合いだということのみである。ベンガル地方のさまざまな新聞でボブ・ディランに関する記事を書いたのは、バブー・キシャンことクリシュネンドゥ・ダスが第1号であり、その後ももっぱら彼しかいない。ボブ・ディランがインドに来たことはないが、記事を通してボブ・ディランをベンガルやインドに紹介したのはバブーである。しかし、我々の目に映る現状はというと、ボブ・ディランと縁もゆかりもない他のアーティストやバウル、詩人が話をでっち上げている様子である。
 バブーは1980年代にディランのアメリカ・イースト・ウェスト・ツアーに同行し、父親と母親を伴って少なくとも10回はステージに立っている(正確には何年何月のツアーの、どこの都市でやった公演だよ?)。ツアーに参加し、ディランと友人関係を保っていたのはバブー・キシャンだけだ。父親とディランを18年振りに再び結びつけ、ウッドストックでガース・ハドソンとアルバムをレコーディングする手筈を整えたのもバブーなのだ。
 最近になって、バブーはジェイコブ・ディラン(ボブの息子)と話す機会があったのだが、ジェイコブは、ボブはインドには行ったことがないと語った。我々はこの件に関してボブにも確認を取った。

ボブが首に巻いてるラマバリ(スカーフ)はラクシュマン・ダスがプレゼントしたもの
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アメリカの詩人、アレン・ギンズバーグと、インドの詩人、バブー・キシャン
https://bhavaproject.weebly.com/uploads/6/6/7/2/6672561/published/23517523-10155900350278029-8285528234367316370-n.jpg?1510771542

 バブー・キシャンは長年の盟友、アレン・ギンズバーグとの交友に関する本を執筆中である(早く完成させてね)。バブーはアレン・ギンズバーグとの長期に渡る交友関係を築いたただひとりのバウルである。
 もちろん、この交友関係の端緒はギンズバーグがバブー・キシャンの祖父、「ナバニ・ダス・キェパ・バウル」と出会ったことだ。ギンズバーグは1962年にインドを旅行した際にナバニと会い、亡くなるまでずっと私的な繋がりを保った。アレン・ギンズバーグのウェブページには「その他」のカテゴリーにバブー・キシャンのページへのリンクがある。バブーとアレンは詩人同士で、神秘思想も共有している友人だった。

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 このサイトがフェイスブックのディラン・ファン・サークルで紹介されると、次のコメントが付きました。現地をよく知る人の貴重な発言だと思います:
 当時、私はカルカッタで暮らしており、ディランが来たという噂を例の結婚式の数日後に聞いたことを覚えています。このニュースはすぐに広まり、間もなく、本当のこととして見なされるようになりましたが、私はこれは事実ではなく、都市伝説だと思います。というのも、ベンガル式の結婚式は、少人数のみでプライベートに行なうものではなく、100人以上のゲストを招いて行なう盛大なイベントだからです。もし事実であるのなら、結婚式から今日までの長い時間の間に、ディランが出席しているのを実際に見た人の証言がもっとたくさん出てきていることでしょう。
 サリー・グロスマンこそ、実際にカルカッタに来てバウルたちと会った人物であり、今日に至るまでずっと、ここを訪れ続けています。2年前に行なわれたジョン・マクラフリンのコンサートで、私は彼女と会いました。


当ブログ掲載のボブ・ディランとインドに関する記事:
《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているインド人の話(1)
http://heartofmine.seesaa.net/article/385773614.html

《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているインド人の話(2)
http://heartofmine.seesaa.net/article/386451627.html

これもベースメント・テープスだ
http://heartofmine.seesaa.net/article/407462332.html

ボブ・ディランはインドに行ったことがあった!
http://heartofmine.seesaa.net/article/442946487.html


   






おまけを読む
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2018年01月30日

イギリスの有名ブートレッガー「ミスター・トード」が死去

 これはレッド・ツェッペリンのファンサイト「Led Zeppelin News」に1月26日付で掲載された記事ですが、ミスター・トードというと、ボブ・ディランのブートレッグもたくさんリリースした人物です。ゴスペル曲のみで構成されたコンサート(1979年11月16日サンフランシスコ公演)を収録した史上初のブートCD《Contact With The Lord》や、1981年ヒューストン公演のサウンドボード・テープを収録した《You Can't Kill An Idea》を1990年にリリースした後、ボブ専門レーベル、Wanted Man Musicも作りました。今から四半世紀以上前に、ゴスペル期再評価の最初のきっかけを作ったのがミスター・トードといっても過言ではありません。



イギリスの有名ブートレッガー「ミスター・トード」が死去
文:ledzepnews


 ミスター・トードのニックネームで知られているブートレッガーで、2007年の海賊盤裁判で注目を浴びたロバート・ラングレイが、今月上旬にこの世を去った。
 ブートレッグ情報サイト「Collectors Music Reviews」もラングレイ死去のニュースを報じているが、死因は明らかになっていない。
 2007年にジミー・ペイジが証人として出廷して話題となった裁判では、ラングレイに懲役20カ月の判決が下っている。
 ラングレイは、2005年5月にスコティッシュ・エキシビション&カンファレンス・センターで開催されたレコード・フェアに警察の捜査が入った際に逮捕された。その際、彼が権利者に無許可で違法に販売していた大量のブートレッグが、警察によって発見された。
 この人物が£11,500相当のレッド・ツェッペリンのブートレッグの他、£1,790相当のローリング・ストーンズのブートレッグ、£885相当のビートルズのブートレッグを所持していたことが警察の捜査で判明したと、BBCニュースは報じている。
 ラングレイは、初めのうちは、3件の商標権侵害、2件の著作権侵害については否認し、抗弁していたが、ペイジが出廷して彼に不利な証言するに至り、遂には有罪を認めた。
 ザ・スコッツマン紙の記事によると、ペイジはジュディス・ハッチンソン地方検察官にこう語ったらしい:

「ファン同士で音楽をトレードするまでは問題ないですが、何かと交換するつもりはなく、それを商品化するやいなや、法律的にも道徳的にもルールを侵していることになります。…そうしたレコーディングの中には、ブンブンいってるだけで、音楽が聞こえないものもあります。もしこうしたものが正規にリリースされるとしたら、正しいことではありません」

 ペイジが出廷したことは、当時、マスコミで大きく報じられた:


 クリントン・ヘイリンがブートレッグ産業の歴史について著した本『Bootleg!』には、ラングレイの発言がフィーチャーされている。彼は「ミスター・トード」の名前でインタビューに答え、1990年代初頭はブートレッグCDを製造するのに大変苦労したと、ヘイリンに語っている。
 彼が作ったボブ・ディランのCDブートレッグ第1作目はこんな感じの出来になってしまった:

「初めて作ったCDは酷い代物だった。究極的に酷かった」とラングレイは語る。「《They Don't Deserve It》は届いてみたら滅茶苦茶だったよ。工場に送ったのは75分間の音源だったのに、戻ってきたら、あちこちがカットされて72分になっていた。…ボリューム・レベルも滅茶苦茶で、送ったテープとは全然違っていた。イスラエルに行って、韓国に行って…。戻ってきたら、裏ジャケットは、こういうデータを載せてくれって業者に渡した、[ミセス・トードが]タイプ打ちした原稿をそのまま印刷したものだった。白い紙にね」

Deserve.jpg


 ラングレイはこの本の中でこんな話もしている。彼のブートレッグCDレーベル、Silver Raritiesは、CDの製造工場を探しにドイツに行ったのがきっかけで、1991年8月に誕生したもので、その後、新たにディラン専門のブートレッグ・レーベル、Wanted Manも立ち上げられた。
 イギリスでCDをプレスしてくれる工場を発見することが出来たおかげで、ラングレイは事業を拡大することに成功したのだが、ヘイリンはこのあたりの事情をこう説明している:

「彼は聖杯に出くわした。持って行った音源が何であれ、つべこべ言わずに製造してくれるプレス工場が、イギリスにあるのを発見したのだ。しかも、自分の代わりにあらゆるリスクを引き受けてくれる仲介人も見つけたのだ。イギリスの約半数の卸業者のために前代未聞の値段とスピードでCDをプレスしてあげたことで、彼は誰も逆らうことの出来ない人物になった。
 しかし、これが一時的な状態で、いつかは過ぎ去ってしまうだろう、自分が撒いた憎しみの種が7倍になって返って来るだろうとは、ミスター・トードは夢にも思っていなかった。著作権保護制度の隙間の蝶番{ちょうつがい}がはずれていた非常に短い間、イギリスはヨーロッパのブートレッグ製造の中心地となっており、ミスター・トードは、こうなりたいと夢に見ていた成り上がりの荘園領主のように、そこの主となっていたのだ」



The original article "The legendary bootlegger known as 'Mr. Toad' has died" by Ledzepnews
http://ledzepnews.com/2018/01/26/robert-langley-mr-toad-bootleg-dead/
Reprinted by permission

   



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2018年01月22日

ディラン・イン・グラスゴー1966:ナイフを持った暴漢と機材盗難

 《Trouble No More》がリリースされたせいで《THE 1966 LIVE RECORDING》のことはしばらく忘れてましたが、約1カ月前にグラスゴーのローカル情報のサイトにこんな記事が掲載されました。マンチェスター・フリートレード・ホール公演の本『ジューダス!ロック史上最も有名な野次』の補足として読んでください。


ボブ・ディラン・イン・グラスゴー
ナイフを持った暴漢と機材盗難

文:ロン・マッケイ


 ジョージ・スクエアにあるミレニアム・ホテルのオーナー連中にビジネス・センスがあるなら、数日後には、ノーベル文学賞の受賞者、ロバート・アレン・ズィママンがかつてここに宿泊したことを記念する真鍮のパネルを壁に打ち付けることだろう。もし過去の宿帳が見つかったら、そこには彼がボブ・ディランというペンネームで記したサインがあり、宿泊し、ザ・ホークスとジャム・セッションをした部屋も特定されることだろう。ホテルとしては、そこで消費された大量のドラッグについては、大々的に取り沙汰したくはないだろうが…。
 ディランが初めてスコットランドにやって来たのは50年以上も前のことだ。ショウの後半では、アコースティック・ギターのかわりにフェンダー・ストラトキャスターを肩にかけて、ザ・ホークスをバックにエレクトリックな新曲を爆音で演奏し、毎回野次られていたことで有名な、あのツアーの時の、1966年5月18日にグラスゴーに到着したのだ。
 その前の晩のマンチェスター・フリー・トレード・ホールでは、「ジューダス!」と叫んだ何者かに「お前の言うことなんか信じない!…嘘つきめ」とやり返した後、バンドに音量アップを命じて、怒濤のように〈Like A Rolling Stone〉を演奏している。
 ボブ一行がホテル----当時はブリティッシュ・レイルが所有していたノース・ブリティッシュ----にチェックインした時は、その晩にオデオン・シネマで行なう予定のギグを楽しみにはしてなかったであろう。既にボブはフォークの寵児から目の敵へと変化しており、野次がツアーの見所となっていたからだ。グラスゴーの青年社会主義同盟は出来るだけたくさんのメンバーを集めて、コンサートに行ってブーイングをさせたのだが、彼らの声はポジティヴな反応に圧倒され、埋もれてしまった。
 途中退場も野次もあったが(おそらく青年社会主義同盟が組織的に行なったものであろう)、「ディランを出せ」という野次に対して、ボブは「ディランは体調が優れず、バックステージで休んでいます。彼の代わりに私がここに来ました」と返答した。翌晩、エディンバラのABCでは、反エレクトリック派の連中はバンドの演奏を聞こえなくしようとハーモニカを持参したが、無駄に終わった。
 ノース・ブリティッシュ・ホテルの寝室でディランがロビー・ロバートソンと未発表曲〈What Kind Of Friend Is This?〉を演奏するシーンがYouTubeにアップされているが、この部屋は後に、グラスゴーの負の象徴となる出来事の現場になってしまった。食べ物を持ってドアのところにやって来たウェイターが、突然ディランに向かって「フォーク・ミュージックの裏切り者!」と叫び始めたのだ。



 ディランのドライバー兼ボディーガードのトム・キーロックは、すかさず、この男を部屋から追い出したが、彼はこの時の状況をこう回想する:「そいつはオレにナイフを向けてきた。証拠の傷が今でもあるよ。蹴りを入れてやったけどな」 バンドのツアーバスも被害を被り、レコーディングやハイファイの機材が盗まれた。

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[左の人物がトム・キーロックらしい]


 しかし、翌日、エディンバラを離れる時のディランは上機嫌だった。ディランの監督のもと、自称ディラノロジストのDA・ペネベイカーが撮影したツアーのドキュメンタリー映画『Eat The Document』には、ボブがジョージ・スクエアで、バグパイプの音が鳴る中、警察犬の訓練士を眺めている様子が映っている(3:20くらいから)。バグパイプを演奏している者の姿は画面に登場していないが、恐らく警察のパイプバンドであろう。(4:37にパイプバンドが登場)



 そして、ボブが町を離れるために車に乗り込もうとすると、サイン帳(前世紀のセルフィーか)を振り回している少年少女に取り囲まれる。ボブが彼らに前晩のギグに来ていたのかどうか、ブーイングをしたのかどうか訊くと、彼らは元気にそれを否定する。「オレはブーイングをした連中全員の名前を知りたいんだ」 ボブはこんな冗談を言うと、車で走り去った。



 ツアーはディランが最高にクリエイティヴだった18カ月間の真っ最中に行なわれた。この間にディランは《Bringing It All Back Home》《Highway 61 Revisited》《Blonde on Blonde》をリリースしており、ノーベル委員会に評価されたのもこの頃の作品に違いない。
 5月27日にロンドンで行なわれたツアー最終公演の2カ月後、ディランはオートバイ事故を起こし、その後、8年間はツアー活動から身を引いていたが、この期間にもたくさんの曲を書き、ザ・バンドの面々が暮らしていた家、ビッグ・ピンクで彼らと一緒にそれを録音した。
 以来、ディランは何度もグラスゴーを再訪しており、いわゆるネヴァー・エンディング・ツアーではたいていSECCでプレイしているが、1966年のショウは既に伝説と化している。
 マーティン・スコセッシ監督のドキュメンタリー映画『No Direction Home』(2005年)で、ディランは熱心に語っている:「あのツアーでオレに同行してくれた連中は…オレたちは皆で一緒にライオンの口の中に頭を突っ込んでたようなものだった。オレと一緒に頑張ってくれたあいつらには本当に敬服した。スタッフとして働いてくれただけでも、勇敢な騎士だ。オレの後ろに立っててくれただけでもね」
 グラスゴー公演とエディンバラ公演は、シドニーから始まりロンドンで終わったツアーの現存する全音源を収録したCD36枚組ボックスセット《Bob Dylan: The 1966 Live Recording》に収録されている。グラスゴー公演はDisc 21に、翌晩のエディンバラ公演はDisc 22、23で聞くことが出来る。
 ライナーノーツによると、この音の記録は「無限のヴィジョンを持ったディランの進化をステージ上の現象として捉えている」とのことだが、1966年にグラスゴーのホテルの部屋でギターをつま弾く姿はノーベル文学賞受賞の決め手にはなってないだろう。


The original article “Bob Dylan's wild night of knife fights and robberies in Glasgow” by Ron McKay
http://www.glasgowlive.co.uk/news/history/bob-dylans-wild-night-glasgow-12022386


   
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2018年01月18日

ニューアルバム《Whistle Down The Wind》とさよならツアー

 これは1年前に紹介した記事ですが、FARE THEE WELL(さよなら)と題したヨーロッパ・ツアーの日程が続々発表になっていて、3月にはニュー・アルバムも出ます。最後にもう1度、日本でも歌ってもらいたいです。10年くらい前に、スカーレット・リヴェラを呼んだプロモーターがバエズの来日公演に向けて頑張ってるという話が私の耳にも入ってきましたが、結局、実現しませんでした。


ジョーン・バエズ、ボブ・ディランのノーベル賞受賞と自らの引退時期について語る
http://heartofmine.seesaa.net/article/446259901.html

 
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