2018年11月20日

ポール死亡説便乗ソングが全部まとめてYouTubeに

 つい先日、ジョー・ペリー死亡説リンゴ入院説が流れましたが、当然ガセです。
 そんな中、YouTubeにポール死亡説便乗ソングが全部まとめてアップされているのを発見したので、ここにリンクを貼っておきます(2012年にアップされていて、これまでに約3,000回再生)。『ポール・マッカートニー死亡説大全』の「第27章 10月29日(水):死亡説便乗ソングあれこれ」と「第31章 5月:デトロイトでリリースされた謎の曲」で紹介されている曲は全部網羅されています。先日50周年記念箱物行政がリリースされた《The Beatles: White Album》はポール死亡説ソングだらけなのですが、そういう視点では全然盛り上がってなくて残念です。



INTRO 0:00
Saint Paul by Terry Knight 0:45
(The Legend Of) William & Mary by Terry Knight 6:40
We're All Paul Bearers (Pt.1) by Zacherias & The Tree People 11:19
We're All Paul Bearers (Pt.2) by Zacherias & The Tree People 14:35
Brother Paul by Billy Shears & The All Americans 17:53
Message To Seymour by Billy Shears & The All Americans 20:51
So Long Paul by Werbley Finster 23:08
Here Comes Werbley by Werbley Finster 26:31
Ballad Of Paul by The Mystery Tour 28:54
Ballad Of Paul (Follow The Bouncing Ball) by The Mystery Tour 33:37
OUTRO 38:21

  
 
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2018年11月05日

《More Blood More Tracks》第一印象

 11月3日(土)に、LOFTグループが歌舞伎町に新たにオープンしたROCK CAFEで行なわれたヨーコ・オノの新譜《War Zone》発売記念トーク・ショーを聞きに行きました。話のネタがヨーコなのに店内満員でまずビックリし(5日前に予約を入れた時には整理番号は12番だったので、ガラガラ状態を予想)、トークの割と前半で、私が10年ほど前にインタビューした際、1974年に来日した時のバンドメンバーをヨーコが全然覚えていなかった件も少し取り上げられて、さらにビックリ(&恐縮)。皆、何も覚えてない、人によって言ってることが違う等、記憶に関することも話題の1つでした。



 《More Blood More Tracks》のリリースに際して私が最初に思ったことも人間の記憶でした。この箱物行政リリースの予習として、《MBMT》よりも一足先にリリースされたクリントン・ヘイリン著『No One Else Could Play That Tune』や、過去に出たケヴィン・オドガード&アンディー・ギル共著『A Simple Twist Of Fate: Bob Dylan And The Making Of Blood On The Tracks』、グレン・バーガー著『Never Say No To A Rock Star』等にあらためて目を通して、アルバムについてわかったつもりになった後、11月2日の発売日から翌日にかけて《MBMT》を聞いてみてしみじみ感じたのが、記憶と事実の関係において、皆が整合性と矛盾を抱えているということです。



 先日、本ブログで紹介したミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガードはこんな発言をしています。
今回発売される《MBMT》のためにあれこれ調査を行なった人々から、私が自分の本を書く際に集めた情報に小さな矛盾があることを教えられました。当時は見たことのないセッション記録にヴォーカルをオーバーダブしたという記述があったのです。

 基本的にスタジオ・ライヴ状態でレコーディングされ、ボブのオーバーダブはハモンドやマンドリン、アコースティック・ギターのみ(〈Idiot Wind〉ではヴォーカルのパンチイン)と、『Making』本にはありました。



 6年ほど前に当ブログで、A&Rスタジオでアシスタント・エンジニアをやってたグレン・バーガーの回想『《血の轍》ニューヨーク・セッション秘話』を紹介したのですが、2年前に書籍『Never Say No To Rock Stars』が出版されてみると、一部、言ってることが違うのです(数週間前に気がつきました)。
『秘話』より
ディランは曲を指示した。「それじゃ〈Tangled Up In Blue〉をやろう。キーはGだ」
 しかし、ディランがギターを弾き始めると、コードはGではなくてAだった。…しかも、歌詞は「If you see her say hello」と、別の曲のものだった。

『Never Say No』より
ディランは曲を指示した。「〈If You See Her Say Hello〉をやろう。彼はこの曲を2度、通して演奏した。…3度目のトライの時、ディランはオープン・コードでギターを弾いていたが、歌い始めたのは別の曲、〈You're A Big Girl Now〉の歌詞とメロディーだった…。

 話としては前者のほうが圧倒的に笑えます。しかし、《MBMT》の1曲目は確かに〈If You See Her Say Hello〉ですが、ギターのキーはDであってGではありません。『Never Say No』の話のほうが今回《MBMT》で発表になったものとの整合性が高いです。最初に回想をブログで綴ってからそれを本にするまでのどこかの時点で、記憶の中で修正が起こって後者のようにしたのでしょうか。それとも、テープが回る前のマイク・リハーサルか何かの時に、前者のようなやりとりがあったのでしょうか?



 ディラン研究家のクリントン・ヘイリンも、最新の著書『No One Else』の最初の章の約半分を割いて記憶の矛盾について述べています。ベーシストのトニー・ブラウンの記憶違い、グレン・バーガーの記憶違いを指摘した後、自分の見当違いもしっかり訂正しています。



 今回、反対に、記憶が正しかったことが判明したのがペダル・スティールのバディー・ケイジです。『Making』本では〈Meet Me In The Morning〉のオーバーダブについて次のような発言が紹介されています:
[採用となるテイクの演奏直前に、ディランが]言った。「最初の5ヴァースは歌だ。お前は演奏するな。最後のヴァースは演奏だ。お前も弾け」って。…赤ランプが点いた。オレは最初の5ヴァースは軽く流したが、ボブがオレに派手に弾いて欲っした箇所は「Look at the sun…」のヴァースだった。

 この本が出た15年前から、ケイジの記憶はおかしいのではないか、「5ヴァース」ではなくて「4ヴァース」ではないかと思っていたのですが、《MBMT》Disc 2 Track 5〈Meet Me In The Morning (Take 1)〉を聞いてビックリ! 「Look at the sun…」から始まるヴァースの前に、全く聞いたことのないヴァースがあるじゃないですか! 我々がこれまで聞いていたバージョンではここが丸々、編集でカットされていたのか! ということは、ケイジは発言通り、最初の5ヴァースは軽く音を出してるだけで、6ヴァース(「Look at the sun…」)から本格的に弾き出してることになります。ケイジの記憶は正しかったのです。(『MBMT』にはOKにならなかったスティールのオーバーダブが入っています)



 私の記憶も本当に曖昧です。今の今まで、日本盤についている詳しい解説には全てが書いてあって、日本の平均的なボブ・ファンは、一部の曲をミネアポリスで録音し直したことも参加ミュージシャンの名前も、アルバムの発売当初から知っていたと思い込んでいました。私はこの件をレコードの解説を読んで知ったことだと思っていたのです。しかし、裏ジャケがオリジナルで、〈Idiot Wind〉の邦題が「白痴風」になってるLPと、数年後に出た「来日記念盤」を調べてみたら、解説では取り直しの件は簡単に触れていましたがミネアポリスとは一言も出てきません。ミュージシャンの名前もありません。それじゃ、いったい、どこでミネアポリスの件を知り得たのか? 私には全く記憶がないのです。おっかけもコレクションもしばらく前にやめた(アイドル用語では、これを「他界した」と言うそうです)私と違って、現在でもそのどっちも熱心に続けていて、夏には命がけでフジロックを見て韓国と香港にも行って、今月末にさらに家計を不正流用してニューヨーク公演に行って、現地では手に入るというボブ・ウィスキーを買ってがぶ飲みしてくると宣言してるキモヲタのオッサン(健康診断の結果が「D」判定)に質問してみたら、珍しく私の相手をしてくれて、本邦では1990年に発売された『BOB DYLAN大百科』ではないかとのこと。それより前に出た本や雑誌でミネアポリス・セッションに言及してるものは見つけられないので、これが暫定日本最古の文献としておきますが、より古いものをご存じの方は是非コメント欄にて教えてくださいませ。



 プロモ盤バージョンの〈Tangled Up In Blue〉から聞こえてくるカタカタする音は、シャツのボタンがギターのボディーに当たる音だと最初に言い出したのも誰でしたっけ? 私の頭の中ではこのへんのデータもいつの間にか常識となっていて、いつどうやって知ったのかという記憶が全くないのです。「D」判定オヤジはフィル・ラモーンが言い出したのではないかと言ってますが、どうなんでしょう?

大注目曲は〈Buckets Of Rain〉

 記憶とは関係ないのですが、《MBMT》で一番面白かった曲が〈Buckets Of Rain〉です。関係が悪化した今、あの女について気に入ってた点をあれこれ思うと、かえって惨めになるよと情けなく歌う曲ですが、ここでボブはアルバム《The Times They Are A-Changin'》以来10年ぶりに3フィンガー・ピッキングに挑んでいるのです。それをうまく決めようと躍起になり、でも、どこかでギターを間違えるか、ヴォーカルがおとなしいか、歌詞を間違えるかでOKテイクとならず、結局、採用テイクは一番いい加減に弾いて、3フィンガーらしく聞こえないものでした。しかも、完奏と同時にホッとため息まで入っています。しかし、まだフィンガー・ピッキングに未練があったようで、その後も少し挑戦しています。この一連の流れは爆笑なしでは聞けません。

9月17日
D3 Tr.10 Take 1 + bass 完奏 (2:56)
 スピードやや速。bが完全に曲をつかんでいないが、とにかく最後まで演奏。gも数カ所でミス。演奏後ボブが「I can do that better」と発言。
D3 Tr.12 Take 2 + bass 完奏 (3:20)
 「bring me misery」のヴァースを前半で歌ってしまう。

9月18日 REMAKE
D4 Tr.03 Take 1 solo INC (3:18)
 最後の最後でgを痛恨のミス。
D4 Tr.04 Take 2 solo 完奏 (3:02)
 前半はvoもgも小さくまとまってる感あり。後半voくずしすぎ。
D4 Tr.05 Take 3 solo INC (0:53)
 いきなり後半の歌詞を歌ってしまう。エンディングの練習かも。
D4 Tr.06 Take 4 solo INC (2:36)
 後半で歌詞間違い。

9月19日 REMAKE 2
D4 Tr.09 Take 1 + bass 完奏 (3:08)
 ほぼ完璧だが最後になぜか一瞬bassが小さくなる。おしい。
D4 Tr.10 Take 2 + bass INC (1:02)
 歌詞が出てこなかった
D4 Tr.11 Take 3 + bass INC (1:54)
 歌詞間違えてストップ。
D4 Tr.12 Take 4 + bass 完奏 (3:23)
 いちばん3フィンガーっぽくないギター。voが一番生き生き。最後のコードを弾いた直後に安堵(?)のため息。これが決定テイクとして《BOTT》に収録される(ため息を消すため、ちょっと早くフェイドアウト)。
D4 Tr.17 Rehearsal + bass (0:53) ギターの練習か。もっとギターをうまく決めたいという未練が感じられる。
D4 Tr.20 Take 5 + bass 完奏 (3:27) voおとなしい。Take 4ほどの鮮度はない。

 ところで、最近、箱物行政リリース多すぎです。秋に入ってグレイトフル・デッドの《Pacific Northwest '73-'74: The Complete Recordings》(19枚組)、ジョン・レノンの《Imagine : The Ultimate Collection》、ボブの《MBMT》を購入し、11月9日にはビートルズの《White Album》が出ます。正直、レノンは未消化。ボブも十分聴き込む暇ないまま《White》が出ます。ローリング・ストーンズのLP箱、ザ・バンドとジミ・ヘンドリクス、ポール・マッカートニーは知らなかったことにします。この手のリリースはレコード会社間で話し合って、半年に1セットずつ順番にリリースしてもらいたいですね。


   
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2018年10月16日

《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー

 《More Blood, More Tracks》の発売まであと2週間くらいですが、ミネアポリス・セッションに関してはアルバム採用テイクのマルチトラック・テープしか発見されなかったため、ニューヨーク・セッション中心の内容となったようです。発見されたら、改めてリリースして欲しいですね。量的にはCD3〜4枚で済むでしょう。
 付属のブックレットにどんなことが書いてあるか私には今のところ全く不明なのですが、ミネアポリス・セッションで中心的な役割を果たしていたギタリスト、ケヴィン・オドガードが、今回紹介するインタビューによると、当時、フルタイムでプロとして活躍しているミュージシャンではなかったというのは驚きです(ソロアルバムも何枚か出ていて、日本でも一部の音楽マニアに注目されているレベルなのに)。設備もスタッフも2流3流の田舎のスタジオで一体何が出来るんだ?というのが、ニューヨーク側のスタッフが、ボブがミネアポリスでレコーディングをやり直すという話を聞いた時の素直な気持ちでしょう。今回はニューヨークの人の気持ちになるとして、将来、ミネアポリス編が出た時には、今度は、こっちの参加者の並々ならぬミュージシャンシップに驚愕することになるでしょう。




《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー


 先月、ケヴィン・オドガードの最新CD《Artifacts》を入手した。その時はアルバム評でも書こうかなという軽い意図しか持っていなかったのだが、2度ほど聞いた後、私はもっとたくさんのことを知りたくなった。特に3曲目の〈Dear Friend〉に心を動かされ、魅了されてしまったからだ。この2年の間にとても親しい音楽仲間を2人も亡くしたことに触発されて書いた曲であるに違いない。この2人のミュージシャンとは、長年に渡って開催されているノースランズ・ディラン・フェストというイベントを通して出会い、私も知っている人物だ。アルバム全部に金をつぎ込みたくはないという方は、アマゾンでこのトラックだけをダウンロードしてみたらいかがだろう。サマー・オブ・ラヴを覚えている世代なら、親しい友人を少なくとも数人は亡くした経験をお持ちだろう。このトラックは凡人には表現することの出来ない何かに繋がっている。
 それはそうとして、ケヴィンは今週、エーゲ海でセイリングに興じているまっさい最中なのだが(リヴァプールに行って、キャヴァーン・クラブにも出演している)、海からあがっている間にいくつか質問に回答してくれた。
 事情に詳しくない人のために説明しておくと、ニューヨークで行なわれた《Blood On The Tracks》の最初のレコーディング・セッションの約3カ月後に、ボブ・ディランの弟、デヴィッド・ズィママンの仕切でミネアポリスで再レコーディングされたのだが、その時に集められた地元のミュージシャンのひとりがオドガードだった。既にレコーディング済みのトラックの一部に複雑な感情を抱いていたディランは、《Blonde On Blonde》の時にやったように、欲しいサウンドを獲得するのに場所を変えてやってみる価値ありと判断したのだ。
 ということで、ケヴィン・オドガードは《Blood On The Tracks》のセッションに招かれてギターをプレイした。〈Tangled Up In Blue〉のイントロのあの聞き慣れたギターを弾いているのが彼なのだ。ケヴィンはその後、自分のバンドで中西部で活動した後、ロサンゼルスに居を移してナショナル・アカデミー・オブ・ソングライターズ(NAS)の理事となり、作曲家の権利と収入の保護に尽力し、VH-1とショータイム・ネットワークで放送された『A Salute To The American Songwriter』の共同プロデューサーとなり、2004年にはアンディー・ギルとの共著『A Simple Twist Of Fate: Bob Dylan and the Making of Blood On The Tracks』を出版した。
 長年に渡る結婚生活が破綻をきたしつつある時に、心の奥底にあるものを吐き出したような作品《Blood On The Tracks》は、ディラン史上最も売れたアルバムとなったのだが、ミネアポリス・セッションが終了した頃には、10万枚分のアルバム・ジャケットが既に印刷済みだったので、セッションに参加したミュージシャンは誰ひとりとして公にはクレジットされないままになっていた。オドガードと評論家のアンディー・ギルが『Making』本を出版したのはは、事実を正しく伝えるためだった。そして、来月リリースされる《More Blood, More Tracks》で、やっと、話の全体がありのままに語られることになった。


《Blood On The Tracks》のレコーディングに参加した時、あなたは何歳だったのですか? ディランとレコーディングするという体験が、いったいどうやって転がり込んで来たのですか?

 《Blood On The Tracks》をレコーディングした時、私は24歳で、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道のブレーキマンをやってました。ずっとデヴィッド・ズィママンが私のマネージャーでしたが、ウーフ・レコードから1971年に出したファースト・アルバムは全然売れなかったので、レッド&ホワイト・タクシーのドライバーをやりながら、時々、一目置いている友人たちとギグやレコーディングの仕事をやってたんです(ミル・シティー・レコードからシングル〈Can't Turn Back/Sunshine Silver Mine〉をリリース) 。グレッグ・イノーファーは昔からの仲間だったので、1974年のクリスマスの直後にデヴィッド・ズィママンから電話があった時、真っ先にグレッグを推薦しました。他に薦めたミュージシャンはスタン・キッパーとダグ・ネルソンですが、ダメでした。リズム・セクションは既に選定済みだったんです。ビル・バーグとビリー・ピーターソンはサウンド80で引っ張りだこのミュージシャンで、素晴らしい人選だったと思います。
 ズィママンが私を選んだのは、私の母と友人だったからです。彼は私の人生の中でも母の人生の中でも特別な人物でした。私は何の変哲もないギタリストでしたが、強力なリズムの出せるギターを持っていたんですよ。ストラディヴァリに匹敵すると思います。夏にノーズ・ダコタ州メドラで夏の出稼ぎ仕事をやった後、ニューヨークのマニーズ楽器店で購入しました。ディランもここで買い物をしてますよね。このギターを手にした私は、その年の夏にメドラでスティーヴン・デラップとドクター・チャック・アンダーソンがやってたトラヴィス・ピッキングをやってみようと思い立ったのです。
 彼らはすぐに忘れられてしまうようなヒット曲を演奏してお茶を濁してたわけではありません。レパートリーは、ドック・ワトソンやミシシッピ・ジョン・ハートが守ってきたアパラチアやデルタ地方のフォーク・ブルースを、深く掘り下げたものでした。聞いていて、すっかり魅了されました。'69年の夏のことです。うっとりしながらも、私はよく観察しながら盗むという学習スタイルを実践していました。もっぱらエピフォンの安物のコンサート・モデルの12弦を使ってたのですが、それを置いて、彼らの指が弦から弦へどう動いてるのか、金属製のピックを指にはめて、何をどのタイミングでどういうふうにやってるのかを観察しました。
 今でもそういうふうに学習してます。会場からお持ち帰りというのが私の方針です。そうして、創造的な副産物がどこから生じるか、認識を新たにしていたわけです。それが私の才能となってます。そして、指先から血が出るまで練習してやっと、マーティンD-28からああいう音が出てきて恍惚感に浸れるのです。自然の中にも人間の技術の中にも、マーティンに匹敵するものはありません。騒音だらけの部屋の中で40歩離れたところからでも、目隠しテストでマーティンの音を言い当てることが出来ます。私の小さな世界の中では、今でも、マーティンは山上の予言者の声なのです。無双の存在。これからもそうでしょう。

  

 昨年、ペンシルヴァニア州ナザレスにある工場の見学に行ったのですが、この意識は2倍強くなりました。そこにいたのはアメリカを代表するギター職人たちでした。あんたの持ってる特注のオルソンを見せてくれないか、なんて言うんです。これは昔、ジェイムズ・テイラーが持ってたもので、私にとってはマーティンD-28の次に値の張るギターです。マーティンが私をボブ・ディランのレコーディングに連れてってくれたのです。〈Tangled Up In Blue〉では私のマーティンの音がはっきりと聞こえます。最高の音です。正直、今は両手とも進行性の関節炎にかかってるので、カニレアの5弦のウクレレを演奏しています。美しい楽器で、音の鳴りも優れています。ピックアップも内蔵されています、でも、一緒に墓に入りたいのはマーティンとですよ。あのマーティンの奏でるセイレンの歌(美しい歌声で船乗りを誘う海の精)が、私をディランのセッションに連れってってくれたのだと、今でも信じています。

● 『A Simple Twist of Fate』は、ミネソタのミュージシャンがアルバムに全くクレジットされてないことから、真相をはっきりさせようという意図で書かれたものですよね。あの話を書くよう、誰かから勧められたのですか? どういう経緯であの本は出たのですか?

 レコーディングから30年経った頃、ゲイリー・ダイアモンドから電話があったんです。彼は音楽業界の友人なのですが、『MOJO』誌で《Blood On The Tracks》のニューヨーク・セッションの特集記事を見つけたのです。それで、「ヘイ、ケヴィン。この話のもう半分を『MOJO』のライターのアンディー・ギルと書いてみないかい?」って、話を持ちかけてきました。その頃、私は通勤列車の運行部長で、頭の中では、人の死やディランの最近の作品、ますます大きくなるディラン伝説等、いろんなことを少しずつ意識ようになっていました。ディランは文学賞候補になったり、やることなすこと全部において巨匠扱いされるようになってきていました。私はそういうのを凄いなあと思っていたので、本の話には飛びつき、この業界で最高のスタッフを確保しました。ポール・ブレスニックは優秀な編集者です。ベン・シェイファーは優秀な出版人です。そして、作業を進めて、ある種の強力な執念、芸術のイミテーションのような人生の形に仕上げました。《Blood On The Tracks》の登場人物と同じく、私も離婚を経験し、家族や家、仕事を失ったことがありますし。



 ポール・メッツァの呼びかけで、その数年前に《Blood On The Tracks》に参加したバンドの殆どの面子を再び集めて、ファースト・アヴェニューで1度だけコンサートやったんです。その後、もう1度集まって、本の出版を記念して、'04年3月にミネアポリスのパンテージズ・シアターでフル・バンドでコンサートをやりました。音楽で初の成功を収めたのは人生絶不調の時で、立ち直るのにあと3年かかりました。本は2刷の後は常に手に入るようになりました。世間の人から注目してもらえるような自慢の種をやっと獲得することが出来たというわけです。
 今回発売される《More Blood, More Tracks》のためにあれこれ調査を行なった人々から、私が自分の本を書く際に集めた情報に小さな矛盾があることを教えられました。当時は見たことのないセッション記録にヴォーカルをオーバーダブしたという記述がありました。その記録を見て、私は夜も眠れなくなりました。問題はオーバーダブではありません。これはレコーディングのプロセスの一部です。あれから40年以上経ってるのに、私が眠れなくなってしまったのは、私がレコーディングに参加出来るように手を貸したミュージシャンのクレジットが全くなかったことなのです。グレッグ、クリス、それと、ピーター・オストルーシュコです。彼らのこともクレジットするよう、あの時、もっと強く主張しなかったことに関して、ずっと罪悪感を抱いてきました。その後、私はロサンゼルスの音楽業界で、ソングライターや映画音楽の作曲家の権利、収入、クレジットを求めた活動を数十年間やりました。デジタル時代になって、全て再交渉する必要があります。
 でも、今はもう、罪悪感に苛まれてはいません。ディランの事務所がドアを開けてくれたからです。今度はミュージシャン全員の名前を正しい綴りでクレジットしてもらえることになったからです。私はその責務、人生のミッションから解放されました。



 今のアメリカには笑いが足りません。だから、私は人生のパートナーである妻、スーザン・ケイシーと一緒に笑える本を書こうと思ってるんです。私がスーザンと出会ったのは2007年のことで、彼女は騒動のあれこれを目撃しています。音楽ビジネスは楽しいところです。これでなければダメという定型も構造もありません。私のような老いぼれが親父バンドを結成したら、それこそ面白いことになるでしょう。

《Artifacts》は強力な歌が収録されている素敵なアルバムです。オープニング曲はとても甘いスピリットを持っています。あなたが作ったアルバムは全部、こうした感じなのでしょうか? その時点でのあなたの人となりを反映したものなのでしょうか?

 本でいう、あとがきのようなものです。《Artifacts》は私にとっては締めくくりです。さまざなレコーディングを集めたもので、古いものは1971年のサウンド80までさかのぼります。友人のゲイリー・ロパックとまとめました。ビートルズとディランの雷に打たれたアメリカの少年の軌跡をたどりたい人にはお誂{あつら}えです。私を知るための人間学的作品です。



〈El Nino Suite〉の背景について詳しく教えていただけますか?

 〈El Nino Suite〉はまさに私のとっての《Blood On The Tracks》です。アメリカの労働者は自分の仕事が嫌いで、天気や死の心配ばかりして、仕事と結婚生活を失って、メキシコで漁船をチャーターして暮らす生活を選択しても、こっちも最後は悲惨です。祖父の古い木製のボートを徴用してキューバからマリエル難民の輸送に関与するのですが、最後はクジラに食われてしまうのです。全然良いものではありません。私は昔のテープをスーザン宅の地下室に入れておいたのですが、彼女はこの哀れな男のマニフェストを、箱の中に入った録音の断片から蘇らせてくれたのです。


The original article “Kevin Odegard's Artifacts Seasoned with Blood On The Tracks, Sweat and Tears” by Ed Newman
https://pioneerproductions.blogspot.com/2018/10/kevin-odergards-artifacts-seasoned-with.html
Reprinted with permission

 

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2018年09月30日

情報公開法によって開示されたデイヴ・ヴァン・ロンクに関するFBI文書

 ジョン・レノンが一時期、FBIにマークされていたことは有名で、一部の人が裁判まで起こして情報開示請求を行ない、その結果が次のような本にまとまっていますが、レノン以外のミュージシャン(特に1950〜60年代のフォーク・シンガー)に関してもFBIがどのようにマークしていたのか、開示された資料をもとに研究している人がいます。そんな記事を先日発見しました。レノンがFBIにマークされていたのは1971年11月〜1972年12月の約1年でしたが(本ブログの「エレファンツ・メモリーのベーシスト、ゲイリー・ヴァン・サイオック、ジョン&ヨーコを語る」も少し参照のこと)、デイヴ・ヴァン・ロンクの場合、1963年〜72年の約10年間に及びます。

  


情報公開法によって開示されたデイヴ・ヴァン・ロンクに関するFBI文書
文:アーロン・J・レナード(トゥルースアウト)

Newly Unearthed FBI File Exposes Targeting of Folk Singer Dave Van Ronk
text: Aaron J. Leonard, Truthout




女性教師のひとりが、1年生のオレが〈Star Spangled Banner〉の歌詞を3番まで全部覚えてることを知ってたいそう喜んで、「Oh thus be it ever when free men shall stand」と歌いながら、オレを教室から教室へと連れ回したなんてこともあったなあ----デイヴ・ヴァン・ロンク

監視対象者は、マクドゥーガル・ストリート116番地のガスライト・カフェでギタリスト/シンガーとして雇われている。「NYO(FBIニューヨーク支部)は現在、対象に関する略式のレポートを制作中」----1963年3月のFBI報告書

 筆者による覚え書き:以下の文は、情報公開法に則って2016年6月に行なった要求によって国立公文書館から得た、デイヴ・ヴァン・ロンクに関するこれまで未公開だったFBI資料に基づいたものである。この資料を入手したのは、1940年代から1950年代にかけての第2次赤狩りの期間中に、フォーク・シンガーたちに対して行なわれた弾圧に焦点を当てた本のための調査中のことだった。

 アメリカ合衆国に関する人気のあるおとぎ話は、現在のトランプ時代はさておいて、アメリカは世界で比類なき、自由を守る国だというものである。歴史の教科書は我が国の言論の自由、信教の自由、表現の自由を、我々が世界に比類なく有している権利として誉めちぎっている。アメリカでは意のままに創造活動に勤しむことが可能だ----この国にはプッシー・ライオットや艾未未{アイウェイウェイ}のような、政府から弾圧を受けている芸術家はいない。芸術活動をしていることで警察に追い回されたり、投獄されるアーティストはいない、と我々は思いたい。
 もちろん、現実は正反対だ。ピート・シーガーが要注意人物としてマークされたり、レニー・ブルースが幾度も逮捕されたことから、ザ・ディキシー・チックスが放送禁止になったことまで、この国には芸術を抑圧する伝統がある。FBIがフォーク・シンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクを執拗にマークしていたことが、今回開示されたFBI資料から判明したことで、我が国には昔から政治的抑圧という伝統が存在することを、あらためて確認しよう。

FBIの要注意人物リスト

 デイヴ・ヴァン・ロンクは紆余曲折の人生を送った。熱狂的なジャズ・ファンから始まって、バンジョー・プレイヤーになり、そしてフォーク・シーンの中心的存在となった。その際、彼はボブ・ディランやジョニ・ミッチェル、トム・パクストンといったアーティストの仲間、友人になり、たくさんの後進ミュージシャンにとっては指導教官的な存在となった。死後になって、イライジャ・ウォルドによってまとめられて世に出た自伝『The Mayor of MacDougal Street』(邦題:グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃―デイヴ・ヴァン・ロンク回想録)と、その後にコーエン兄弟が制作した映画『インサイド・ルーイン・デイヴィス』がなかったならば、ヴァン・ロンクは歴史的記憶のひびから洩れて、消え去ってしまっていたかもしれない。彼が1950年代後半と1960年代前半のフォーク・リヴァイヴァルという歴史的に重要な瞬間において大きな影響力を持っていた人物として、ピート・シーガーやウディー・ガスリー、リー・ヘイズ、シス・カニンガム、その他、20年前に活躍した人々によってもたらされた左翼的フォークの子孫として当然の地位を確保しているのは、こうした作品のおかげである。
 ヴァン・ロンクは政治に強い関心を持った人物だったが、プロ歌手として重点的に扱っていたのは、ボブ・ディランやフィル・オークスが歌っていた「プロテスト・ソング」というよりはむしろ、伝統音楽のほうだった。これは主に芸術的な理由からだった。彼はこう書き記している:「それ(プロテスト・ソング)はオレのスタイルに合ってなかったし、人を納得させることの出来るレベルで歌えるとも感じていなかった」 彼の回想録が自分の政治的見解や、自分が関与していた国内の闘争、彼が連携していた多数の組織にそんなにスペースをさいていないのは、恐らくこういうわけだからであろう。
 それとは対照的に、このほど開示された1963年の報告書によると(最初の報告書が作成されたのは1957年12月だった)、FBIはヴァン・ロンクの政治活動を事細かに追っていた。その結果、ヴァン・ロンクがどういう団体と関係があったかわかっただけでなく、FBIが彼に関して報告する複数の情報提供者を抱えていたことも判明した。例えば、セントルイスで行なわれた社会主義労働者党(SWP)の支部ミーティングに関して、FBIは次のような報書を受け取っているのだ。そこでは、メンバーのひとりがヴァン・ロンクと出会ったことを語っていた:

この人物は、最近、セントルイスのガスライト・スクエアに現れた歌手と接触したと語った。歌手の姓はロンクもしくはランクという。ニューヨーク・シティー出身の若者で、SWPの中でも少数派の声を代表しているようである。というのも、ファレル・ドブス[このグループのリーダー]に対してやや批判的だったからだ。SWPは労働組合関係の組織に普及にもっと力を入れるべきだと感じているようだった。(FBIセントルイス支部、8/6/63)

 このミーティングについて報告している情報提供者が誰なのかは特定することは出来ないが、明らかなのは、FBIがSWPについてだけでなく、ヴァン・ロンクの移動や見解に関しても独自の見識を有していたことだ。
 ヴァン・ロンクがSWPのメンバーだったのは、比較的短期間だった。報告書が説明しているように、彼は[ティム・]ウォールフォース・グループの一員だったのだが、この派閥はSWPの活動は徹底していないと感じており、その結果、除名されていた。ヴァン・ロンクを含む離脱組の者たちは、第4インターナショナル・アメリカ委員会を結成し、さらに後にワーカーズ・リーグを結成した。
 ヴァン・ロンクがFBIのセキュリティー・インデクス(要注意人物リスト)に加えられたのは、短期間とはいえSWPのメンバーだったからだ。1963年4月16日付の報告書には、フォーク・シンガー兼ギター・プレイヤーのヴァン・ロンクをFBIのセキュリティー・インデクス----国家の緊急時には拘束すべき人物のリスト----に加えるべきと書かれている。このブラックリストに加えられたがために、FBIはヴァン・ロンクがここに載っている限り、引っ越すたびにその住所を探し求めることとなった。記録によると、1963年と1964年に、FBIはヴァン・ロンクがウェイヴァーリー・ストリートの住所に住んでいることを確認するという「口実」で、彼の電話応答サービスに電話をかけ、彼の住む建物の管理人と話をし、近所の人間に聞き込みを行なっている。詮索は何年間も続いた。シェリダン・スクエアに引っ越した後も、FBIは、今度もまた、彼が実際にそこに住んでいることを確認したいという口実で、新たな管理人に聞き込みを行なった。ヴァン・ロンクがセキュリティー・インデクスから削除されたのは1972年のことだった。セキュリティー・インデクス自体が廃止予定となったからだ。



失われた海員証

 映画『インサイド・ルーイン・デイヴィス』には、デイヴィスがマーチャント・マリーン(米国保有商船隊:半民半官の運送会社で、アメリカ海軍の支援にもあたる)で海員として働くために組合員証を更新しようとしたところ、書類が受理されなかったというシーンがある。このエピソードは、ヴァン・ロンク本人が『Mayor of McDougal Street』の中で語っている話に基づいている。マーチャント・マリーンで働いていた時期があるのだが、海員証の入った財布が盗まれてしまった後、自分の全運命をフォークシンガーになることに賭けようと決意したと語っているのだ。ヴァン・ロンクによると、「新しい書類を得て、再び船に乗ることが出来るようになるのに、半年か1年くらいかかりそうだった。さらに、オレがああいう政治思想と左翼系の友人を持ってたせいで、書類を発行してもらえる奇跡すらわずかしかなかった」
 現在では事実であることが判明しているのだが、ヴァン・ロンクが抱いていた不安は根拠の確かなものであった。FBIは彼をブラックリストに加えるかどうか判断するために経歴を調査した際、レコードも何枚か聞いた。1963年2月15日付のFBIメモによると、そうしたことで彼らが知ったのは、「アルバムの1枚のジャケットは、この監視対象者が、過去において、マーチャント・シーマンだったことを反映している」ということだった。
 これを発見したFBIは、情報として沿岸警備隊情報部に伝えると、情報部部長は、FBI長官であるJ・エドガー・フーヴァーに宛てた1963年7月11日付の手紙の中で、「聴聞手続を通して、対象[ヴァン・ロンク]に書類の発行を拒否することが望ましいことを証言してくれる人物を用意することが出来ないか」と打診した。すると、フーヴァーは7月22日付の書簡で、対象[ヴァン・ロンク]がSWP本部に入るのを確認した特別捜査官の派遣を申し出ている。最終的に、聴聞会は行なわれず、ヴァン・ロンクも既に気持ちを切り替えていたのが、この件で彼は自分がマークされているという確信を抱いた。イライジャ・ウォルドはトゥルースアウトに宛てたeメールで「新しい海員資格証を発行してもらえないだろうと思ったのは単なる被害妄想ではなかったという証拠を見たら、デイヴは喜んだことだろう」と書いている。FBIと沿岸警備隊は実際に聴聞会をやろうとしていたのだ。

兵役不適格という診断

 ヴァン・ロンクに関するFBIファイルは、政府がこういうふうに個人のプライバシーを侵害していたという例を記している。この資料は、ヴァン・ロンクの徴兵用健康診断の報告書まで調べるという、FBIの徹底ぶりを示すものとして見ることも出来よう。1964年5月22日付の報告書には、次のことが記されている:

診察した内科医の出した診断結果は「目は遠視。喘息の病歴あり。とても神経質でピリピリしている。たくさんの恐怖症や不安を抱えている。手を広げると震える(酷い)、冷たく湿った手をしている。会話をする際、言葉がたどたどしく、時々、吃音もある。不適切。酷いノイローゼ」 よって、肉体的理由及び精神医学的理由から、兵役には不適格。

 さまざまな症状は、わざとそう見せかけたものだったことが判明している。ヴァン・ロンクの元妻であるテリー・ソルは、トゥルースアウトに送ってくれたメールにおいて次のように回想しているのだ:

 デイヴはクイーンズのリッチモンド・ヒルの友人と一緒に、同時に、入隊前の健康診断に行って、4F(兵役不適格)という判断が下されるために、デイヴは精神的な問題を表すよう練習をしていた。ふたりは検査場に行く前に、マリファナを大量に吸引し、デイヴは手が震えたり、どもったりする練習をした。
 しかし、彼は本当の健康問題を抱えていた。特に、ぜんそくの経歴があり、緊急処置室に運ばれたことも何度かある。
 FBI側は、入隊時の健康診断書を額面通りに受け取った----もしくは、そう受け取ることを選んだ----ようである。その後のセキュリティー・インデクス登録延長用紙において、彼らがヴァン・ロンクに直接接触していないことが繰り返し書いてあるのは、こういう理由なのかもしれない。1964年4月14日付のこうした報告書には、以下のように書かれている:

過去に尋問したこと(日時)なし
再尋問 なし(理由)精神的不安定、かつ、フォークシンガーという職業ゆえ、対象へ尋問するとFBIにとって問題となる可能性あり。


 言い換えると、ヴァン・ロンクが有名人であるので、FBIに対して挑戦的態度を取り、FBIが意図していることを暴露されたら困ると考えていたのだ。

政治と芸術

 デイヴ・ヴァン・ロンクは芸術と政治は別物であるという意見の持ち主で、「政治的な歌」を書いたり広めたりはしないアーティストだった。「家具職人で左翼思想の持ち主だったら、左翼の家具を作らなければいけないのかい?」とも彼は書いている。しかし、このような区別をFBIはしなかった。ヴァン・ロンクがさまざまな左翼組織と関係していたことから、FBIはただちに彼のファイルが作り、彼がトロツキー派のフォークシンガーであると考えていた。冷戦の名残を考えると、ヴァン・ロンクを重要なターゲットとしたのは、彼がフォークシンガーで、大勢のファンに対して影響力を及ぼす可能性があったからであろう。
 ヴァン・ロンクのキャリアが始まったのは、ザ・ウィーヴァーズがブラックリストに載って全国のステージから閉め出されて、まだ5年しか経ってない頃だった。彼らが犯した罪は、〈Goodnight, Irene〉や〈Kisses Sweeter Than Wine〉といった歌を歌ったことではなく、メンバーが1940年代に共産党と関係を持っていたことである。資本主義という支配的パラダイムに異議を唱える組織と関係を持っている輩は----たとえ、その関係が過去のものであっても----最も大切なものであるはずの自由に値せずというのが、FBIや他の政府組織の判断だった。1950年代においては、ピート・シーガー、シスコ・ヒューストン、バール・アイヴズ、ジョシュ・ホワイト、シス・カニンガム等のアーティストは、キャリアの選択に直面した。つまり、共産主義者と過去に関係していたことは誤りだったと公の場で認めるか----ホワイトとアイヴズはそうした----ファンと接することを禁じられるか、どちらかしかないということだ。
 その点で、後にピーター・ポール&マリーとなるグループが結成されようとしている頃、ヴァン・ロンクがそのメンバーにと誘われていることは、言及に値する。もし彼がメンバーになっていたとしても----このグループの人気を考えると----政治思想のせいで追い出されていただろうことは、想像に難くない。もちろん、ヴァン・ロンクは、このグループに加入するかわりに、もっと低いレベルの知名度で頑張った。
 ここには差異がある。ヴァン・ロンクはフォーク・シンガーとしての活動を邪魔されたわけではないのだ。ピート・シーガーが仲間内で小さな会場でプレイすることしか「許され」ず、全国的知名度を持ったキャリアを台無しにされたのとは大きく違う。アメリカが経済的に、政治的に強い状態だからといって、勾留やもっと激しい弾圧という手段に訴える必要がなかったわけではない。アメリカはそういう選択肢も捨ててはいなかった。ヴァン・ロンクがまさにそのケースだった。何かあったら勾留しようとマークされ、常に監視され、仕事を得るのを邪魔する陰謀の対象となっており、実際に何度も迷惑を被っていた。政治的活動家であるテリー・ソルは、トゥルースアウトに送ってくれたeメールの中で、こういう雰囲気があったことを語ってくれた:

長年に渡って、FBIは近所の人に私たちのことを訊いて回っていました。電話も盗聴されていたと思います。一度、長い通話が終わった直後に、再度、受話器を持ち上げたら、私が少し前にしてた会話が聞こえてきたなんてことがありましたから。後に、デイヴと別れた後、私は短期間、証券会社で働いてたんですが、ある日、従業員は全員、明日、指紋を採取する予定ですと告げられました。私はどうしたらいいのか考えましたが、決心が下せないまま、指紋が採取される予定の日に出社すると、朝のうちに解雇されました。その週のうちに、その建物の管理人が、FBIが自分やビルで暮らしている他の人に私について訊いていたよと教えてくれました。アパートの家主はFBI職員に、私のことをとてもいい人ですと話したそうです。

 ヴァン・ロンクとソルはFBIに監視されていることを知っており、それは見えるところ、見えないところの両方で、いつ落ちて来るかわからないダモクレスの剣のように、不安な要素となっていた。ヴァン・ロンクが海員証を再発行してもらうのを諦めたことが示すように、それは生き方を決める条件になっていた。実際、全体的にどんな影響があったのか、及び、このような監視がなかったら一体どうなってたかは、まさにここで解明したいことではあるが、答えようのない疑問である。
 ヴァン・ロンクが監視されていたのは「古き悪しき時代」だったからだとも、今はアーティストは
罰せられることなしに言いたいことを言える時代だとも、言わないことが大切だ。現在では弾圧の手段も様変わりして、別の勢力が抑圧的な役割を果たしているのだ。ある種のメディアや政府機関、極右系の組織が暗黙の境界線を押しつけてくるような例を、今では目にする。その結果、アーティストが大企業によってキャリアを邪魔されるケースもある。ザ・デキシー・チックスは、リーダーのナタリー・メインズがイラク戦争に公然と疑義を唱えたために、クリア・チャンネル(コンサート、ラジオ、テレビ業界を仕切る大企業。現在ではiHeart Media)によってラジオから締め出される等の反対キャンペーンをされて、カントリー界でのキャリアを傷つけられた。ジョーン・バエズは、ヴェトナム戦争に反対していたのは数十年も前のことなのに、米陸軍から負傷兵支援のコンサートをキャンセルされた。ラッパーのコモンはアサタ・シャクール(1973年に警察官殺害の罪で終身刑となるも、脱獄してキューバに亡命。現在もFBIの指名手配犯リストに載っている)に対して同情を示す歌を歌ったことで、フォックス・ニュースで酷評され、大学からは学位授与式でスピーチする予定をキャンセルされた。こうしたたくさんの出来事は----目に見えないところでも様々な動きがあることは言うまでもない----アメリカ合衆国において芸術的自由、政治的自由が稀薄であることをはっきりと物語っている。


The original article “Newly Unearthed FBI File Exposes Targeting of Folk Singer Dave Van Ronk” by Aaron J. Leonard, Truthout
https://truthout.org/articles/newly-unearthed-fbi-file-exposes-targeting-of-folk-singer-dave-van-ronk/
Reprinted with permission


  
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2018年09月25日

11月9日発売とは!

 ビートルズの《ホワイト・アルバム》50周年記念箱物行政の発売日が、何と、11月9日です。《Sgt. Pepper》のドラムの中心に鏡を置くと、「I ONEI X HE ◇ DIE」という文字が浮かび上がります。ここまではこじつけでも何でもなく、本当に起こる現象です。で、これ以降はこじつけなのですが、この奇怪な文字を解釈すると…

pid_HeDie.jpg


I ONEI X HE ◇ DIE
I ONE IX HE ◇ DIE
119 彼 ◇ 死ぬ


 ポール死亡説においては、11月9日が命日なのです。《ホワイト・アルバム》は〈Glass Onion〉の「The walrus was Paul」という歌詞や、〈Revolution 9〉を逆回転させると聞こえてくる「turn me on dead man」等、ポール死亡の「証拠」だらけのアルバムなので、リリースをわざわざこの日にぶつけてくるとは、オフィシャル筋の真意はいかに?

  





 ボブ・ディランの箱物行政《More Blood More Tracks》も殆ど同時期の11月2日発売なので、財布に優しくないだけでなく、聞くべき音楽が多すぎて(読むべきブックレット、関連書籍も)消化不良になることは必至です。業界全体で話し合って、半年に1つずつ出してもらえないでしょうか。
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