2017年07月17日

ディラン&ザ・グレイトフル・デッドは30周年

 なんとか何十周年というのが大流行の今日この頃ですが、今年がそれにあたるというのに《Sgt. Pepper》50周年やコーネル大学公演40周年の影に隠れて全然目立ってないのが「ディラン&ザ・デッド30周年」です。前2者のような派手な「箱物行政」のリリースもなく、誰からも相手にされてない感がパないですが、嬉しいことに、ハワード・F・ワイナーというディランとデッドの両方が好きという殊勝な人物が『Dylan & The Grateful Dead: A Tale Of Twisted Fate』を出版しましたよ。そして、彼のお気に入りのショウ、ジャイアンツ・スタジアム公演が行なわれた7月12日に、今回ここで紹介する回想を自身のブログに掲載しました。
 私もこのコンサート、直に体験したかったなあ。

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[共演の翌年にリリースされたユージーン公演(私はこの公演が一番好き)の海賊盤LPと、21世紀になってからeBayで入手した同公演の未使用チケット----タイムマシンが欲しい]





ディラン&ザ・デッド、再生の場所としてのジャイアンツ・スタジアム
文:ハワード・J・ワイナー


 1987年7月12日(日)、ビルボード誌のシングル・チャートではボニー・タイラーの〈Total Eclipse Of The Heart〉がナンバー1、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストではスティーヴン・キングの『Misery』のトップだった。『Misery』に登場するよろよろ歩きの主人公のように、ディランは名声によって手足を不自由にされ、救済を求めていた。ジャイアンツ・スタジアムの10マイル東には、ボブ・ディランの神話と伝説が始まった場所であるマンハッタン島の荘厳なスカイラインがあるが、もしディラン本人がキャリア初期のヴィレッジ時代についてじっくり考えるなんてことをするとしたら、別の人生で起こった出来事のように感じることだろう。華氏95度(35℃)の猛暑だったあの日、ニュージャージー州イースト・ラザフォードでハイウェイや沼地、汗臭いヒッピーに囲まれながら、ディランはデッドからライフラインを受け取ったのだ。
 これはグレイトフル・デッドが1セット丸々ディランのバックを務めた6回のショウのうちの3回目だった。7月4日にフォックスボロで行なわれた1回目のショウは、ディランにとっては11カ月ぶりのコンサートだった。ディランのグダグダで錆びついたパフォーマンスをグレイトフル・デッドの調子の悪い日と合わせてみろ。結果は最悪だ。6日後にJFKスタジアムで行なわれたショウ2回目には大きな向上が見られた。その時、ガルシアとディランが同じステージに立っているという光景のパワーに私は心を奪われながら〈The Ballad Of Frankie Lee And Judas Priest〉の初演を聞いた。しかし、このショウのテープに私は感激したことはなく、ディラン/デッドのコラボレーションの素晴らしさを説明するのに、誰かに聞けと勧めたこともない。その2日後のジャイアンツ・スタジアム公演こそ、私がこれまでに見た最もスリリングな音楽イベントなのだ。この30年の間、数千回とテープを聞き、ビデオを見てきた後も、この気持ちは変わらない。
 ディランにもガルシアにも、躊躇やお試しという概念はない。ショウの前に協定を結んだかのようだ。2曲目の〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉の開始時、ディランはずれた拍子で歌い始めてしてしまったが、調子を落とすことなく歌い続け、第3ヴァースになると、この語り部は初めてこのバンドに畏敬の念を抱いたかの如く、歌詞を弾丸のように発射する。グレイトフル・デッドはディランのスタイルでペースを作ったアレンジを提供し、ソロのスペースは2回分、手短に残しておいた。ディランとのジョイントが終了した後も、デッドは〈Stuck Inside Of Mobile〉をレパートリーに加えたが、ガルシアはいつもソロを2回取っている。しかし、この晩には、ディランが情熱的に「Oh MAMA! Can this really be the END?」と叫ぶのを耳にしたガルシアは、ソロをもう1度余計に弾いて、大胆なパフォーマンスの流れの方向性を定めた。



 ガルシアはペダル・スティールのほうに移動すると、ディラン/デッドでは1回だけしか演奏しなかった〈Tomorrow Is A Long Time〉が始まった。ディランがこんな曲聞いたことないかのように叫び声で歌う一方、デッドはラブリーなカントリー風味の演奏をしていた。しかし、ガルシアとウィア、ミッドランドと一緒にサビを歌い、ジェリーのペダル・スティール・ソロを聞いて、ディランはこのバラッドの本質的感情を発見し、最終ヴァースの叫びには愛がこもっていた。
 〈Highway 61〉ではディランは軽快に飛ばし、「Found a promoter who nearly fell off the floor, yeah-eah, I never did engage in this kind of thing before, yeah-eah」(床に転びそうになったプロモーターを発見。イェー。前に、こんなことに関わったことなんてないぜ。イェー)を笑い混じりに歌った。ディランは歌いながら、歌詞のアイロニーに思いがけず気がついたのだ。だって、本当に、こんなことは今までにやったことがなかったのだから。ディランは常に音楽面でのリーダー役を担ってきたが、ジャイアンツ・スタジアムでは、事実上のリーダーはガルシアだった。2006年にローリング・ストーン誌に掲載されたジョナサン・レゼムによるインタビューで、ディランはこう語っている。「デッドはオレの曲をたくさんやってたから、一緒にやった時はアレンジは全部いただいた。オレよりうまくやってたからね。オレの出来の悪いレコーディングの中にある、そこに埋もれてる歌が、ジェリー・ガルシアには聞こえていたのさ」 〈Highway 61 Revisited〉でガルシアは絶妙なスライド・ギターを弾いた。ガルシアのソロ活動は、ここしばらくはジェリー・ガルシア・バンドのみだった。デッドと同じくらい実験的な音楽をやってはいたが、こっちもずっと同じメンバーだった。ディランと演奏することは夢の実現であり、かつ、ジェリーとっては、いつもの快適ゾーンの外側に踏み出すチャンスにもなっていた。
 エキサイティングな〈Highway 61〉の後、ディランとデッドは〈It's All Over Now, Baby Blue〉を始めた。1986年には2回挑戦して悲惨な結果に終わっていた曲だ。ジャイアンツ・スタジアムでもまた、ディランのシャウトのタイミングはズレ気味だったが、自信を失わずに曲を進め、第2ヴァースになると、デッドのゆったりとしたアレンジに対して銃を速射するような歌い方をうまく合わせる術を見出した。ガルシアが「And it's all over now…」と歌っていると、ディランは最後の2単語以外を早口でまくし立てた後に、ガルシアが追いつくのを待ち、ふたりで揃って最後の言葉を叫んだ。「Baby Blue!」 自分のアプローチを変えることなく、ディランはこの芸当をやってのけた。そして、ガルシアはこの瞬間が気に入ったことを、2回目のソロとして表現した。グレイトフル・デッドの歴史において、〈Stuck Inside Of Mobile〉のソロが3回あったのはこのショウのみだったが、ソロが2度あった〈Baby Blue〉もこの時のみだった。
 ディラン&ザ・デッドが〈Ballad Of A Thin Man〉を開始すると、何かが起こり始めた。ディランが1960年代に書いた予見的な歌をこのコンビは3回連続で演奏したが、ディランが歌詞を正しく歌うのを聞きながら、ウィアとガルシアも自信に満ちた表情をしていた。ガルシアはディランの歌に呼応するようにリフを演奏した。ディランが「contacts among the lumberjacks」(木こり間の連絡)に関する強力なブリッジを歌った後に、ブレントがパワフルなコードを弾くと、ミュージシャン全員のタイミングはピッタリ。ディランはブレントの貢献に「オー・イェー!」と叫んで応える。ガルシアがエンディングで弾いた精神がとろけてしまうような見事なソロは、サイケデリックな混沌の雰囲気を作り出した。私たち全員、ミスター・ジョーンズ的な性質を少しは抱えているものなのだ。



 ディランがデッドの手を借りて初期の未発表の反戦歌〈John Brown〉を蘇らせた後、薄明かりが暗闇に変わると、ミュージシャンたちはタバコのライターの炎のゆらめきを背景に楽器をチューニングした。ジャイアンツ・スタジアムに掲げられた巨大なビデオ・スクリーンの1つが、ギターを持ったガルシアの姿を映し出したタイミングで〈Wicked Messenger〉が始まった。《John Wesley Harding》に入っているこの曲は、ディランがライヴでは披露したことのなかったナンバーだが、ガルシアのソロ・バンドの1つ、リジョン・オブ・メアリーは1975年に何度か〈Wicked Messenger〉をカバーしている。ディランはマイクの前に歩み出て吠えた。「There was a wicked messenger from Eli he did come!」(悪意を抱いた使者がいた。そいつはエリからやってきた) 腹の底から声を発する伝道師のようなヴォーカルは、この曲の聖書的な雰囲気にマッチしていた。ディランの丁寧な歌い方が何かを示しているとしたら、ガルシアのブルース・リフとバンドが出す雷鳴のようなサウンドに動かされてのことだろう。ディランが「The soles of my feet, I swear, they're burning」(オレの足の裏が燃えている)と歌うのをガルシアが聞くと、彼のすばしこい指は踊るソーセージにようにフレットボード上を小刻みに動いた。ディランはガルシアのギターに酔いしれながらステージ上をウロウロした。私はこれまでで最もホットなギター・ソロを聞いた時の観客の反応に心を打たれた。 「If you can't bring good news then don't bring any」(良いニュースを持って来れないのなら、何も持ってくるな)とディランが歌うと、デッドはブルース風メロディーラインをもう1度演奏して、この曲を締めた。ガルシアとウィアはドヤ顔で立っていた。ディランは何かに取り憑かれているようだった。ミッション完了。
 このパフォーマンスに関する歴史的な云々(ディランにとって〈Wicked Messenger〉はライヴ初演だった)や、ディランが人生半ばで経験していた創造力の沈滞について全く知らなかった私は、ただ癒しを感じていただけだった。これは、ガルシアとディランが一緒にステージに立ったらこんなことが起こるかもしれないと私が考えていた予想を超えていた。
 次に披露された私の大好きな2曲〈Queen Jane Approximately〉〈Chimes of Freedom〉は少々焦点の合ってない演奏だったが、〈Chimes〉ではディランは煌めくようなヴォーカル・ワークを披露した。



 フォックスボロ公演とJFK公演の後に、私の頭の中でずっと鳴っていた曲が、《Desire》に収録されている伝説のギャングについて歌った〈Joey〉だった。ディラン・マニアになってまだ日が浅かった私は、この曲が持つパワーを見過ごしていた。ディランの横で、ガルシアは確信を持ってコーラスを歌った。「ジョーイ、ジョーイ、ストリートの王、土の子供。奴らに自分を殺しに来させたのはなぜなのか?」 デッドが何度も強くコード進行を鳴り響かせているこの時の〈Joey〉は、アルバム・バージョンを打ち砕いてしまった。ディランはフットボール・フィールドの端に建てられたステージ上に立っていた。全米トラック運転手協会のボス、ジミー・ホファの遺体が埋まってるのはそのあたりだという噂がある。ディランはギャングのペルソナをかぶり、まるで本当に見てきたかのような話しっぷりで、ジョーイ・ガロのゆりかご(ブルックリンのレッド・フックで誕生)から墓場(ニューヨークのシーフード・レストランで撃たれる)までの物語を語る。ディランはギターをライフルのように持ち、前をまっすぐ見据えて、せせら笑いながら、ジャイアンツ・スタジアムを魔法にかけてしまった。5つのヴァース全てを完璧な順番で歌い、社交クラブにいる話し上手な男のホラ話のようなやり方で事実を届けた。ディランの演奏中、巨大スクリーンの映像が観客の心の中に入り込む。ディランはそれまで見捨てていた曲と本能的に再接続していた。
 1991年のポール・ゾロによるインタビューで、ディランは語っている。「オレにとっては、いい歌さ。素晴らしい歌だという魅力は決して失われない。そういうことって、毎晩歌いながら、ようやくわかることなんだ。この曲をオレに歌わせた奴を知ってるだろう。ガルシアさ。ガルシアがオレにこの曲をもう1度歌わせたんだ。史上最高の歌の1つだとも言っていた。こんな言葉が彼の口から出てきて、どっちに受け取っていいのかわからなかったよ(笑)。デッドの演奏でこの曲を歌わされたけど、オレにとっては、〈Joey〉には、毎日耳に出来るわけではないホメロス的なところがあるのさ」
 〈All Along The Watchtower〉でもガルシアの素晴らしいギターの腕前が披露された。私はこの曲が自分が体験した最もスリリングなコンサートの最後の曲だろうと思った。最後のジャムの炎のまだまだ熱い残骸が遂にタッチダウンとなった時、ディランは言った。「ありがとう、グレイトフル・デッド!」 ディランは1987年に36回のコンサートを行なったが、オーディエンスに向かって語りかけたのは2度しかない。この時と、9月5日のテルアヴィヴ公演で〈Highway 61〉の後に「シャローム」(「みなさんに平和を」という意の別れの言葉)を言った時だ。この晩のデッドのパフォーマンスに心の動かされていたディランは、コードをいくつかかき鳴らした。その直後、ボブの口から発せられた言葉は「Come gather 'round people, wherever you roam…」。ジェリーと仲間たちは不意をつかれたに違いない。しかし、彼らは残業も厭わない。ディランの発する不朽の言葉の間のスペースを、ガルシアは生き生きとしたラインで満たした。ジャイアンツ・スタジアムに集まった忠実なファンの中に立っていた私の頬を、驚喜の涙が伝っていた。今でおなお、この〈The Times They Are A-Changin'〉の感動的な演奏は、テープで聞くたびに胸がいっぱいになる。5時間に渡って、3回の長いセットをこなした後だというのに、グレイトフル・デッドはディランと一緒に再び登場して、ダブル・アンコールに応えた。ディランは〈Touch Of Grey〉にギターで参加し、ウィアとガルシア、そして、ふたりの間にいるディランが「we will get by-eye-eye, we will survive」のラインを歌った。これ以上幸福な瞬間はない。〈Knockin' on Heaven's Door〉は素晴らしいイベントのやさしいさよならの挨拶だった。ずいぶんゆっくりとしたバージョンだったが、彼らがまだ演奏しているのは驚きだった。私はまあまあ健康な24歳の男子だったが、じりじり暑い夏の日に、倒れる寸前だったのだから。
 ディラン&ザ・デッドは1週間の休みの後、西に移動してユージーン、オークランド、アナハイムで最後の3回のコンサートを行なった。何があったのかは私には定かではないが、ツアーの最初の勢いはなくなっていた。ユージーン公演はフォックスボロに毛が生えた程度の出来映えで、残りのショウも首尾一貫性に欠けていた。7月24日のオークランド公演がこの3回の中ではベストであり、〈I Want You〉と〈Knockin' On Heaven's Door〉は必聴だ。
 1989年には、このツアーで演奏された曲をまとめたレコードがリリースされた。批評家たちはこぞって《Dylan & The Dead》を酷評した。確かに残念なアルバムで、選曲はディランが担当したらしい。デッド側からも、主にジャイアンツ・スタジアム公演から選曲されたアルバム案がまとめられたが、ディランはこの提案を拒否。ガルシアがアルバムのミックスについて相談するためにマリブのディラン邸を訪れた際、ボブはラジカセでテープを聞いたらしい。リリースされたアルバムは無意識的な自己破壊行為であり、これによってグレイトフル・デッドも間接的にダメージを被った。ジャイアンツ・スタジアム公演を中心にアルバムを作らない限り、まともな作品にはならない。ディランの《Bootleg Series》の一環として、ジャイアンツ・スタジアム公演にスタジオ・セッションのアウトテイクが加えられてリリースされたら、《Dylan & the Dead》によって不正確に記録されてしまった歴史を修正し、この重要なコラボレーションを輝かしい光で照らすことが出来るだろう。

The original article "BORN AGAIN IN THE SWAMPS: DYLAN & THE DEAD 30 YEAR AGO, GIANTS STADIUM" by Howard Weiner
http://visionsofdylan.blogspot.jp/2017/07/normal-0-false-false-false-en-us-x-none.html
Reprinted by permission

   
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2017年07月16日

ポールが死亡説を否定というフェイクニュース

 フェイクニュースのサイトが、ポールが死亡説を否定したというフェイクニュースを載せました。つまんないです。

http://worldnewsdailyreport.com/paul-mccartney-refutes-ringo-starrs-allegations-that-he-died-in-1966-3/

 いつの間にか、日本のウィキペディアの「ポール死亡説」の内容が充実してます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E8%AA%AC

  
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2017年07月11日

コンサートの録音には猛反対だったグレイトフル・デッド

 グレイトフル・デッドのライヴ音源人気投票ナンバー1の座に君臨するようになって久しい1977年5月8日コーネル大学公演ですが、今年5月にやっと正式に発売されました。それまでの紆余曲折については拙ブログでもいくつか記事を掲載しています:

今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年
長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命

 コーネル公演とその前後の計4公演を収録したCD11枚組の「箱物行政」には、コーネル大学出版局が出した『Cornell '77』(ピーター・コナーズ著)という書籍も付属し、それには1970年代後半のグレイトフル・デッドの状況から、コーネル大学のロック・シーン、ファンによるコンサートの録音とテープ・トレード文化、当日の演奏曲、コーネル公演をバンドのスタッフとして録音した人物と、彼女が残した高音質テープの行方、「コーネル公演テープはCIAによるヒッピーの洗脳実験で、実は公演自体がなかった」説まで、さまざまなことが書かれています。
 当然、私が興味を持ったのはコンサートの録音とテープ・トレードに関する部分です。約30年前に、そっち方面からこのバンドに興味を持ちましたから。デッドに関する入門書等では「フリーの精神に溢れたグレイトフル・デッドは、コンサートの録音と、ライヴ・テープの流通を気前良く許可・奨励。テープが無料の宣伝となって人気が拡大」といったストーリーをよく見かけますが、100%嘘ではないものの、実際にはもっと複雑な課程を経て、1984年10月27日のバークリー・コミュニティー・シアター公演から正式に録音者用セクションが設けられました。『Cornell '77』では1970年代前半からコンサートを録音してきた超ベテラン・テーパー(1974年のボブ・ディラン&ザ・バンドのナッソー・コロシアム公演のテープでも有名な人)の談話が紹介されています(p.45〜46):
グレイトフル・デッドがコンサートの録音を奨励していたなんて神話があるが、嘘っぱちもいいところだよ。奨励なんて全くしてなかったね。少なくとも、初期の頃は全然だ。録音をやめさせようと最大限の努力をしたけど、結局、やめさせられなかったっていうのが実のところさ。基本的に、バンド側が戦争に負けて、どこかに妥協点を見いだしたんだ。そして、そのうちに方針が変わって、「オレたちは昔から録音を奨励してたよ。もちろん、今も大賛成さ!」ってなった。ファンがコンサートを録音するのはバンドにとって重要なことだったってわかったのさ。だったら、もっと早くから賛成してくれたらよかったのに。録音がバンドを成長させたんだよ。オレが言いたいのは、デッドをビッグな存在にしたのは確かに音楽なんだが、シーン全体を超巨大に膨らましたのはテーパーたちだってことさ。

 1980年代になると、ウォークマン等の普及で会場にマイクと録音機を持ち込む輩が増加し、録音者と非録音者の間で互いに邪魔だのうるさいだのといったトラブルが頻発し、乱立するマイクスタンドのせいでミキサーからステージが見えないこともしばしば。その解決策として正式に、録音者セクションをミキサーの後ろに設けて録音者を隔離しました。そこからはだいたい入門書の通りです。でも、セクションより良い音が届く前の方の位置で録音しようとする輩が、その後もあとを絶ちませんでした。
 グレイトフル・デッドが録音を奨励していなかった面白い証拠を2つ挙げて起きましょう。まず、1970年5月16日テンプル大学公演。〈New Speedway Boogie〉の最後の40秒間にはバンドのスタッフらしき人物が録音を止めるように命じている様子が収録されています。イギリス訛の英語を話していることから(「tape」を「タイプ」と発音しています)、この人物は元ローリング・ストーンズのスタッフで、オルタモント事件後はアメリカにとどまってデッドのツアー・マネージャーになったサム・カトラーの可能性が高いです。ローリング・ストーンズの《Get Yer Ya-Ya's Out》の冒頭でバンドを「greatest rock'n'roll band」と紹介しているのがサムです。同じ声じゃないですかね。


 もう1つが、1980年10月31日のニューヨーク、ラジオ・シティー・ミュージック・ホール公演のビデオ《Dead Ahead》に収録されている寸劇です。まだ、録音者用セクションがない頃のことです。



 アル・フランケン扮するヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(キッシンジャー本人は2017年の今でも存命です!)が、グレイトフル・デッドのコンサートを隠し録音しようとして見つかり、ビル・クロイツマンに叱られています。アル・フランケンは伝説的テレビ番組『サタデー・ナイト・ライヴ』で有名になったコメディアン/コメディー作家なんですが、何と今は上院議員をやってます。大出世! この↓ミック・ジャガーの真似も大爆笑です!(デッドとは関係ないですが)



 あともう1つ、この本で注目すべきは、筆者が一番好きなコーネル音源は、サウンドボード録音とオーディエンス録音をミックスさせたものだと告白している点です(ただし、今回の箱物行政を聞く前の時点なので、今は意見が変わってる可能性もあります)。サウンドボード・テープは客の歓声が殆ど入ってなくて臨場感に欠けるというのは、デッドがバリバリの現役時代から存在していた批判であり、デッドの音響スタッフは、ミキシング・ボードからの信号を、そこに立てたマイクで拾った会場のノイズとミックスさせて、ウルトラ・マトリクス・ミックス・テープを作っていました。といっても、こういう音源が存在するのは87〜91年頃で、その他の期間はありません。しかし、コンピューター時代になり安価で高性能のDTMシステムが普及した今、手間暇さえ厭わなければ、シロウトでもボード音源とオーディエンス音源をデスクトップでうまい具合に同期させて絶妙なミックスを作ることが出来ます。グレイトフル・デッドのファンは暇なのか、こうしたミックス(デスクトップ・マトリクス・ミックス)を作って、音源交換サイトにアップロードしてくれる親切な人がいます。コーネル音源もとっくにそうした処理の対象になっています。youtubeにあるこれがそうです。皆さんも聞いてみてください。



 コーネル音源は、グレイトフル・デッドのテープを数多く聞けば聞くほど、これがベストではないだろうと感じるショウなのですが、人気投票となるとなぜか必ず1位になるという不思議な現象が起きます。私にもコーネルより好きなショウがたくさんあります。同じ1977年から選ぶとしたら11月6日ニューヨーク州ビンガムトン公演です。私はこのコンサートに関しても、手間暇を厭わないクレイジーなデッドヘッドが作ったデスクトップ・マトリクス・ミックスのほうが純サウンドボード音源より好きです。是非ご賞味あれ。


P.S. コーネル大について調べていて気づいたのですが、菅直人元総理の著書の英訳本『My Nuclear Nightmare: Leading Japan Through the Fukushima Disaster to a Nuclear-free Future』がコーネル大学出版局から出て、今年3月には同大学で講演会をやったそうです。
https://sagehouse.blog/tag/naoto-kan/

   
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2017年06月28日

ファンを相手にデマを流したモーリス・ギブ

 デイヴ・モレルは1970年代からニューヨークのレコード会社で宣伝マンとして活躍した人物です。当時の体験を綴った回想録『The Morrell Archives』全6巻のうち、現在は3巻目までが自費出版の本として世に出ていますが、ロック・ファンなら誰もが死ぬほど羨ましく思う体験の話が満載。詳しいことは本を読んでください。
 今日紹介するインタビューは3巻目『45 RPM (Recollections Per Minute)』が出版されたタイミングでジェイ・ギルバートの業界人インタビュー・ブログに掲載されたものなのですが、私が注目したいのは〈Have You Heard The Word〉というシングルの件。1970年代には「ジョン・レノンがビージーズとレコーディングしたものという噂がある」という謎のレコードでしたが(真相はこちらのサイトで)、ヴォーカルがジョンの声によく似ているということ以外に、ビートルズのレコーディングかもという奇妙な噂が立った原因があったのです。

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デイヴ・モレルとコーヒー・トーク
聞き手:ジェイ・ギルバート


 デイヴ・モレルは少年時代から数々のロック・バンドのファンであり、1964年初頭にアメリカを席巻したビートルズ熱に感染して以来、この病気は治らないまま。ビートルズを研究し、ビートルズのメンバーにも会った。墓地で草刈りのアルバイトに就いた後、レコード会社の倉庫で働き、その時、誰かからレコードを持ってラジオ局に来いと頼まれた。これは学校の勉強や宿題よりもいいじゃないか。デイヴはシングル・レコードを数枚持って、この世界に飛び込んだ。デイヴは自分の体験について本を3冊書いている。

音楽業界で働く人には皆、お気に入りの「先輩業界人」がいるものですが、あなたにとってのそういう人物を何人か教えてください。

 1985年2月22日にブルーノートのブルース・ランドヴォールからディナーに誘われたんだ。ブルースは大の音楽ファンで、面白い話も持ってる人物だった。音楽好きであるだけでなく、業界に入り込み、アーティストや自分が好きな音楽にとってリーダーとなった(あの偉大なジョン・ハモンドのように)。この晩、自分のお気に入りのミュージシャンに歴史的なリユニオン・コンサートを行なってもらうのが、彼の夢だった。業界のリーダー的存在の人はまわりにたくさんいたけど、共感出来る人と接するとさわやかな気分になる。ブルースの隣でこのショウを見ることが出来て、とても幸せだった。この伝説的人物の心のあたたかさと魅力は忘れたことはない。
 次はジョン・レノン。想像してくれ。ジョンが出演してるラジオ局にファン・レターを書いたら、局の人がそれをジョンに渡してくれたんだ。そしたら、ジョンがオレに会いたいって言い出した。夢が叶ったよ。自分のコレクションの中から、ジョンが見たことないだろうと思ったものをスーツケースに詰めて、持って行ったんだ。これは宝箱みたいなもので、ジョンは手に取ったもの全部を気に入ってくれた。オレはジョンにファンとして会い、スタジオと彼の自宅で一時を過ごした。好きなアーティストに手紙を書いたってこと自体、今でも信じられないなあ。業界でやってこれたのは、もとを正せば、この人のおかげだし。

スコット・ムニとリック・スクラーは? この2人のラジオ界の重鎮と確かな人間関係を持っていたでしょう。ニューヨーク・シティーで宣伝マンとして成功していたんですから。

 もちろん。スコットの番組は聞いてたけど、彼が局を運営しているボスだとは知らなかったし、リックが何者なのかも全然知らなかったんだ。リックは厳格で厳しく、まさに勝ち組といった人物だった。会った時も、オレは長髪にビートルズ・ブーツって格好だったけど、リックはスーツにネクタイだった。子供の頃、WABCを聞いていて、ビートルズに関連した宣伝をたくさん覚えていますと言うと、リックはオレを追い払うどころか、面白い話をたくさん聞かせてくれた。どういうふうにして数々の宣伝アイデアを思いついたとかさ。リックともスコットとも仲違いしたことはない。ふたりとは亡くなるまでいい友人だったよ。

自分のDNAの一部となってるような曲、悲しい時とか、これを聞くと気が紛れるという曲、絶対に感動する曲、元気になれる曲のリストを作るとしたら、どんな曲を入れますか?

 「男全員に女の子がふたりずつ…」ジャン&ディーンの〈Surf City〉だ。頭の中が女の子のことでいっぱいの年齢だった。当時のオレには、グリニッジ・ヴィレッジよりサーフ・シティのほうが魅力的だったんだよな。1963年だとオレは10歳だった。スワンから出たビートルズの〈She Loves You〉のシングルは、音がレコード盤から飛び出して来る。かなりやかましかったから、オヤジやオフクロから「音を小さくしなさい」って苦情が必ず飛んできた。
 リンダ・ハーグローヴの〈I've Never Loved Anyone More〉もいいね。一緒に仕事をしたことがあるよ。リンダは孤独で、ニューヨーク・シティーのことを怖がっていた。ショウの後、オレは彼女の滞在している部屋に行ったら、この曲を歌ってくれたんだ。オレは涙が出て来たよ。ジェニファー・ハドソンがこの曲を発見して、ホイットニーがドリーにやったのと同じことをやったなら、1970年代最大のヒット曲になっただろうなあ。発見されるのを待っていた曲だね。
 ウィルソン・ピケットの〈Love Of My Life〉は誰も聞いたことがないR&Bの隠れた超名曲だなあ。



 ザ・フットの〈Have You Heard The Word〉もいい曲だ。ビージーズのショウの後、外でファンとしてモーリス・ギブにビートル・アンプ(1966年のビートルズのツアーで使用されていた)について訊いたんだ。そしたら、顔を近づけて、オレの耳もとで尋常でないことを囁いた。「シーッ。誰にも言っちゃダメだよ。実はね、ジョン・レノンと一緒にレコードを作ったんだ。タイトルは〈Have You Heard The Word〉で、名義はザ・フットにした」って。オレはモーリスを見ながら、頭がクラクラしたよ。このレコードを見つけるのに2年かかった。聞いてみて、もうびっくり。ジョンとモーリスが歌ってるんだからさ! ということで、ジョン・レノンにも話したんだよ。「オレは秘密を知ってるよ」って。そしたら、ジョンは大笑いしながら、モーリスとレコーディングしたことなんてないよと答えた。オレはまんまと騙されてたんだ! でも、曲自体はいいと思うよ。(デイヴがジョンに会ったのは1972〜3年のこと)

あなたのデスクのところに来て、あなたも皆に聞いてもらいたいと願ったのに、ヒットには至らなかったアーティストはいますか?

 フレッシュ・フォー・ルルの〈Postcards From Paradise〉はオレがA&R部に配属されなかった理由のナンバー1さ。もしその仕事をしてたら、この駄曲に全てを賭けてただろうな。

誰があなたの師でしたか?

 ワージー・パターソンだ。今は87歳だ。ワージーはコネチカット大学時代はバスケのスター選手で、その後、プロの世界で活躍した最初の黒人選手のひとりだ(1950年代半ばにセントルイス・ホークスで活躍)。ワージーはRCAに入社して、最初に宣伝を担当したレコードがホセ・フェリシアーノの〈Light My Fire〉だった。ワージーに会ったのは、1972年にWEAの倉庫で働いてる時だった。オレをかわいがってくれて、1974年初頭にはオレをWBの宣伝マンに抜擢してくれたんだ。1日宣伝活動をして帰ってきて、誰かのためにコンサートのチケットか何かが必要だった時、ワージーは他の連中とは違って、オレがそいつの約束を果たせるように、チケットを回してくれた。他の担当者は「これはオレがもらったもんだ」って吠えるだけで、譲ってくれなかった。オレが局を訪問して手応えをメモ書きしても、番組ディレクターや音楽ディレクターが曲についてどう「思ってるか」にはワージーは全く関心はなく、彼らが「いつ曲をプレイリストに加えてくれるのか」を知りたがった。おかげで新しい考え方、解決のし方、前進のし方を勉強したよ。ワージーがキレるのも見たことない。自分の考えを通すには別のやり方があるってことに気づくのに役に立ったよ。

この仕事の最もおいしいところって何ですか?

 天気のいい日には社外に出てラジオ局めぐりをして、寒くて雪が降ってる日には社内にいれることかな。遠くの都市に行って、現地の宣伝マンに会うと、観光客目線ではなく、彼らの視点でアメリカを見れて楽しかった。こういう話をする時に思い出すのがニューオリンズだ。

The original article "Coffee Talk with Dave Morrell" By Jay Gilbert
http://jaygilbert.tumblr.com/post/161334286566/coffee-talk-with-dave-morrell
Reprinted by permission


    
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2017年06月25日

1969年10月20日(月)深夜にWABCが報じたポール・マッカートニー死亡説

 『ポール・マッカートニー死亡説大全』第10章「10月20日(月)深夜:ニューヨーク」で取り上げられている深夜放送がyoutubeで聞けます。
 それまではポール死亡の噂はローカル局やアングラ新聞等でしか報じられておらず、メジャーなマスコミでは「しっかりとした裏付けのない、くだらない噂は取り上げない」という方針だったそうです。が、ニューヨークのWABCというメジャー局の人気DJ、ロビー・ヤングがこの禁を破って自分の番組内で話してしまいました。AM放送ゆえ夜は電波がほぼ全米に届くので、翌朝には大騒ぎに! 是非『ポール・マッカートニー死亡説大全』第10章を読みながら聞いてください。



   


ポール死亡説関連記事:

ジミ、マイルスの電報とポール死亡説
http://heartofmine.seesaa.net/article/360945510.html

ポール・マッカートニー死亡説関連曲〈Saint Paul〉
http://heartofmine.seesaa.net/article/447441598.html

『ポール・マッカートニー:最初で最後の完全物語』音声がネットに登場
http://heartofmine.seesaa.net/article/423091022.html
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