2026年08月13日

ガンジス川にたどり着くまで:ジェリー・ガルシアとインド、知られざる物語

 インドのバンガロール在住の音楽評論家・コレクターによるインド発のジェリー・ガルシア論、グレイトフル・デッド論です。ジェリーの誕生日翌日に発表されたものですが、命日までに訳の準備が間に合いませんでした。

ガンジス川にたどり着くまで:ジェリー・ガルシアとインド、知られざる物語

ラヴィ・シャンカール、アリ・アクバル・カーン、ザキール・フセインから受けた影響
〈Fire On The Mountain〉裏話、ガルシア最後の別れ
ジェリー・ガルシアが聞いていた音楽、人脈、そして音楽人生にインドがどのように息づいていたのか。

文:スジット・シンハ
2026年8月2日

 ジェリー・ガルシアとインドとのつながりについて語られる話の殆どは、彼の生涯の終盤に集中している。サンジェイ・ミシュラのアルバム《Blue Incarnation》からは彼のギターが聞こえ、遺灰の一部がリシケシュの近くを流れるガンジス川に撒かれる光景はネットで見ることが出来る。もちろん、この記事ではこの2つの瞬間も取り上げているが、ただ、それだけでは物語がどこから始まったのかはわからない。
 むしろより多くを物語っているのは、もっと静かな部分だ。ガルシアは宣伝のためにシタールを手に取ったり、「インド期」を宣言したり、あるいはスピリチュアルな導師として自分を装おうとしたりしたことは一度もなかった。インドは、レコード、友人関係、チャリティー・コンサート、リハーサル、そして長時間にわたる即興演奏を通じて、彼の人生に溶け込んでいった。それは彼に、メロディーとリズムを考える新たな視点---規律はあるが決して固定されない---をもたらした。そのバランスこそが、彼にとって生涯を通じて重要なものだった。
 最初期の手がかりの1つは、フォークやブルーグラス時代からのガルシアの旧友、デヴィッド・ネルソンに由来する。ネルソンはジェリーと同様、独創的なギタリストであり、彼はニューデリー・リバー・バンドという気の利いた名前のグループの結成メンバーの1人だった。このバンドはサウスベイで誕生した最初期のサイケデリック・ブルース・グループの1つだが、こういう名前ではあるもののインドの首都との直接的関連はなかったようだ。
 ネルソンは後に、1965年半ばに彼とガルシア、そして数人の友人が集まってLSDを摂取した際(ネルソンにとってはアシッド初体験)、ラヴィ・シャンカールのレコードが流れていたと回想している。ネットでも読むことが出来るこの記事には(https://www.dead.net/features/blair-jackson/blair-s-golden-road-blog-ravi-shankar-and-dead)、そのアルバムのタイトルは明記されておらず、ネルソンがその体験を振り返ったのは何年も後のことであるため、これはセッション日誌のようなものというよりは個人的な思い出話に過ぎない。とはいえ、このタイミングは無視しがたい。ガルシアの音楽人生が、アコースティック音楽に対する熱心な修業から、ウォーロックス、及び、そのすぐ後のグレイトフル・デッドのエレクトリックな世界へと転じようとしていたまさにその時、部屋の中にはインドの古典音楽が流れていたのだ。
 これはビートルズが〈Norwegian Wood〉をリリースし、シタールの音をはるかに幅広いロックの聴衆に紹介する数ヶ月前のことだった。もちろん、ラヴィ・シャンカールの1枚のレコードだけでガルシアのスタイルが形成されたわけではないが、その背景は示唆に富んでいる。彼の最初のサイケデリック体験は、通奏低音、ラーガに基づく旋律展開、リズムのサイクル、そして時間のかかる辛抱強い修行によって形作られる音楽に乗って繰り広げられたのだが、こうした特質こそ、後に、即興演奏が徐々に展開していくのを見越し、その過程で即興に形を発見させるという彼自身の本能の中に、自然な共鳴を見出すことになるのである。
 約60年前の1966年7月14日、まったく異なる2つの音楽世界がサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムで交差した。トランペット奏者のドン・エリスとシタール奏者のハリハル・ラオが率いるヒンドゥスターニ・ジャズ・セクステットは、グレイトフル・デッドやビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーと共演した。サンフランシスコのサイケデリック・シーンがまだ形になり始めたばかりの当時、セクステットはすでにインドのリズムの要素をジャズに取り入れていた。
 どういうタイミングだったかを考えると、その夜はさらに興味深いものとなる。この公演は、ミッキー・ハートがデッドに加入し、バンド内でインドのリズムを探求し始めるより1年以上も前の出来事だった。ジェリー・ガルシアやフィル・レッシュがこの公演から何を得たのかは正確にはわからないが、若きグレイトフル・デッドは、インド音楽とジャズのアメリカ最古の融合実験の1つに、まさに直面していたのだ。
 また、この公演は、オリジナル・セクステットが世間の注目からほぼ姿を消す前の、しっかりと記録に残っている最後のコンサートの1つでもあった。彼らは残した録音もごくわずかであり、活動期間も短かったが、フィルモアでのあの夜はインドの古典音楽、モダン・ジャズ、そしてサンフランシスコのサイケデリック・カルチャーが交差した、特筆すべき出会いの場として今なお語り継がれている。

Hindustani Jazz.jpg


 1967年頃には、インド音楽はガルシアの音楽生活において一過性の好奇心の対象ではなくなっていた。4月にラルフ・J・グリーソンが執筆したコラムの中で、ガルシアは自身が愛する音楽---ジャズ、ジャンゴ・ラインハルト、ソウル、リズム&ブルース、オールドタイム・ブルース、ジャグ・バンド・ミュージック、そしてインド音楽---をざっと挙げた。彼はインド音楽を何気なく挙げている。ガルシアにとって、インド音楽は他のあらゆる音楽と並んで当然の存在だった。この何気なさこそ、当時流行していたシタールのこれ見よがしの導入よりも雄弁だ。内なる構造を失うことなく自由をもたらす音楽にガルシアは惹かれていたのだ。
 ベイエリアではそうした世界が皆の目の前でも融合しつつあった。1967年1月14日、グレイトフル・デッドはゴールデンゲート・パークで開催された「ヒューマン・ビー・イン」で演奏した。日が暮れかかる頃、アレン・ギンズバーグとゲイリー・スナイダーが集まった人々を率いて「オーム・シュリ・マイトレーヤ」を唱和した。ガルシアが個人的にその詠唱に加わったという証拠はないが、彼は確かに確かにその場にいた。この物語には脚色など必要ない。重要なのはその場面そのものだ。彼のギターは、インドの聖なる言葉、ビート詩、サイケデリックな理想主義、そして音楽の総体が同じ場を共有したあの午後の一部を成していたのである。
 その2週間後、サンフランシスコに新しくオープンしたラダ・クリシュナ寺院の資金調達を目的としたイベント「マントラ・ロック・ダンス」がアヴァロン・ボールルームで開催された。A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダも出席し、アレン・ギンズバーグがキルタン(歌うヨガ)を主導した。参加したバンドは、経費を差し引いた残りを全て寺院に寄付出来るよう、控えめな出演料を受け入れた。
 後の語り直しでは、ガルシアがプラブパーダの詠唱に直接加わっていたと描かれることもある。最も詳細な目撃証言では、参加したミュージシャンとしてデッドのフィル・レッシュとピッグペンの名前が挙がっているが、ガルシアの名前は出てこない。だからといって、この証言は彼が参加しなかったことを証明するものではない。確固たる証拠がない限り彼をその場面に加えるべきではないという歴史を語る上での約束事を意味しているに過ぎない。
 この話に脚色など必要ない。ガルシアとグレイトフル・デッドは、サンフランシスコで足場を固めようとしていた新しいインドの宗教団体に実質的な支援を行うチャリティー・イベントに、大勢の観客を呼び込む一助となった。それだけでも十分に意味のあることである。
 ほぼ同時期に、インドのリズムはベイエリアの広範な文化圏からグレイトフル・デッドのリハーサル・ルームへと入り込んだ。フィル・レッシュがミッキー・ハートに、タブラの巨匠ウスタッド・アラ・ラカのソロ演奏を収録したアルバムを聴かせたところ、ハートは即座にその魅力に引き込まれた。1967年12月にデッドがニューヨークへ遠征した際、彼はアラ・ラカとの面会を取り付けて、インドのリズムの細分化やサイクルに関する基本的な理解を得て帰ってきた。
 カリフォルニアでは、ハートは1月のバンドのリハーサルにそれらのアイデアを持ち込み、ビル・クロイツマンと緊密に連携して作業を行なった。《Anthem of the Sun》期のデッドは斬新な拍子を追い求めていた。ブレア・ジャクソンはのセッションを〈The Eleven〉に直結させている。こうした経緯によって、ガルシアがターラ(インド音楽のさまざまなリズム)の弟子になったわけではないが、インドのリズム的思考がバンドの活動に明確に浸透していたことは明らかだ。今や、リズムの変幻するパターンを聞き取ってそれに反応し、集団即興へと昇華させる手助けをすることが、ガルシアにとって必須事項となっていた。
 1968年9月20日、グレイトフル・デッドがアリ・アクバル・カレッジ・オブ・ミュージックのためのチャリティー・コンサートをバークリー・コミュニティ・シアターで行った際、インド音楽との繋がりはより一層具体的なものとなった。このカレッジは前年に偉大なサロードの巨匠ウスタッド・アリ・アクバル・カーンが設立したもので、ヒンドゥスターニー音楽が師から弟子へと伝承されていく忍耐と厳しい鍛錬を要するプロセスを教育の中心に据えていた。
 このコンサートは録音テープが現存しており、ガルシアの公式資料の中にも記されているが、それによると、シャンカール・ゴーシュとヴィンス・デルガードがドラマーたちに加わっている。何年も後のことだが、カーンの息子アラムは、デッドが初期の資金調達活動にも協力し、父親のコンサートに対して音響面でのサポートも提供していたことを明かしている。その関係の全貌が解明されることは恐らくないだろうが、重要な点ははっきりしている。すなわち、グレイトフル・デッドは単に遠くからインド音楽を賞賛するだけにとどまらず、その伝統を存続させることに尽力する機関に対して時間と実践的な支援、そして観客を提供していたのだ。
 現存するテープを聞くと、〈Saint Stephen〉から〈The Eleven〉へと途切れなく移り、その後、タブラの巨匠シャンカール・ゴーシュとドゥンベク奏者のヴィンス・デルガードによる長いパーカッションのパッセージへと繋がっている。1976年冬に配布されたラウンド・レコードのニュースレターに掲載された記事「ディガ・リズム・バンドの歴史」(https://www.deaddisc.com/disc/Diga.htm)には、ステージの様子が生き生きと描かれている:グレイトフル・デッドのアンプが脇へどかされ、ミッキー・ハートとビル・クロイツマンの間に2つの演奏台が現れると、4人のパーカッショニストがいくつかのターラを奏でた。同記事によると、締めくくりのリズム・パートはウスタッド・アリ・アクバル・カーンが作曲したとのことだ。
 ただ、一点だけ矛盾がある。この記事ではこれらすべてが〈Alligator〉の演奏中に起きたと記されているのに対し、現存するテープやガルシアの公式アーカイブでは、このパーカッション・セクションの位置は〈The Eleven〉の後である。ハートが後にその演奏台について回想し、このエピソードを〈Alligator〉と結びつけているので、正確な順序は定かではないにせよ、その場面の描写自体は正しい可能性が高い。
 ミッキー・ハートは後に詳しく語っている。ドキュメンタリー・ビデオ『Play Like a Lion: The Legacy of Maestro Ali Akbar Khan』(https://player.pbs.org/viralplayer/3055682604/)の中で、彼は一晩中座りっぱなしでインド音楽を聴いていたことを回想し、ガルシアがウスタッド・アリ・アクバル・カーンの演奏をいかに熱心に聴き入っていたかを語った。カーンの音楽がガルシアの演奏に取り入れられたのかという件について、ハートは即答した:「もちろんだよ」 彼はさらに、カーンと彼が設立したカレッジがなければグレイトフル・デッドは違うバンドになっていただろうとさえ述べている。この発言が重要なのは、わずか数フィートの距離から30年近くもガルシアの演奏に耳を傾け、それに応えてきたドラマーの言葉だからだ。これによって、これまで広く知られていた焦点が変わる。ラヴィ・シャンカールがガルシアの音楽世界の一部であったことは間違いないが、ガルシアとハートが夜遅くまで音楽に耳を傾けていたその部屋では、アリ・アクバル・カーンのサロードがシタールと同じくらい重要な役割を果たしていたのかもしれない。
 聴くことはすぐに演奏へと変わった。ザキール・フセインは、1970年頃、ミッキー・ハートのバーン(カリフォルニア州ノヴァトに購入した農場の納屋{バーン}をスタジオに改造していた)で音楽を通じて初めてガルシアと出会ったことを覚えている。ほぼ4日間続いたジャム・セッションの場でだ。ルールは単純。音楽を決して止めてはならず、常に少なくとも2人が演奏し続けなければならないというものだった。ある時、フセインは納屋{バーン}の床で眠り込んでしまったが、数時間後に目を覚ますと、ジェリー・ガルシアとデヴィッド・クロスビーがすぐそばに立って、演奏し、歌っていた。彼は周りを見回し、ドラムを見つけると、彼らに加わった。
 正確な日付は定かではないが、記憶に残るその光景は驚くほど鮮明だ。彼らの最初の音楽的交流は、入念に企画された「東洋と西洋の融合」コンサートなどではなかった。それは、ミュージシャンたちが出入りし、眠りたい時には眠り、それでも何とかして96時間近くも音楽を絶やすことなく続けられた納屋の中で、ほぼ偶然に起きた出来事だった。
 ガルシアがインドの音楽的アイデアに関心を持っていたからといって、インドの影響を受けたあらゆる種類のフュージョンを賞賛していたわけではない。1974年のインタビューで、彼はジョン・マクラフリンの並外れたテクニックを認め、その演奏を傑出していると評した。しかし、マハヴィシュヌ・オーケストラには全く心を動かされなかった。ガルシアにとって、その音楽は「エネルギッシュというよりは神経質で落ち着きがない」ように聞こえたのだ。彼が求めていたのは「さらなる美しさ」と「もっと魂のこもった表現」だった。これは複雑さを否定するものではなく、ましてやインド音楽に対する批判でもなかった。ガルシアの主張はもっと単純なものだった。テクニックは目を見張るほど素晴らしいものであっても、そこに人間的な感情が込められていなければ、技巧だけでは彼の関心を長く引きつけることは決してなかったのだ。
 1975年5月末には、この長きにわたる音楽的な対話は完全に公の場へと移っていた。ガルシアはディガ・リズム・バンドに加わり、ゴールデン・ゲート・パークで行われた無料の午後のコンサートに出演し、ザキール・フセイン、ミッキー・ハート、そしてベイエリアのインド音楽コミュニティにゆかりのあるミュージシャンたちと共に演奏した。

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 どの芝地だったかは歴史上の謎となっている。ガルシアの公式サイトでは、コンサートの会場をマークス・メドウとしているが、その後に行われた調査はこれに異議を唱え、スプリンクラーによって当初の会場が水浸しになり、ミュージシャンたちが道路を挟んだ向かい側のリンドリー・メドウへ移動せざるを得なかったと主張している。会場の場所については依然として議論の余地があるが、音楽そのものについては議論の余地はない。ガルシアはディガの演奏に加わって、アルバムによっては〈Happiness Is Drumming〉〈Fire on the Mountain〉と表記にぶれの楽曲を演奏した。
 ディガとの共演はライヴ出演だけにとどまらなかった。1976年にリリースされたディガ・リズム・バンドのアルバムでは、ガルシアは〈Happiness Is Drumming〉と〈Razooli〉の2曲でギターを演奏している。後者の曲はグレイトフル・デッドの定番曲に直接関連するものではないために見過ごされがちだが、この曲の存在は、ガルシアが印象に残る実験に少し立ち寄っただけではないことを物語っている。タブラやドゥギ・タランが、ゴングやトーキング・ドラム、マリンバ、ヴィブラフォン、西洋式のドラムセットと並んで演奏される、打楽器を中心としたアンサンブルの中で、ガルシアは演奏した。これこそが大デッド・ファミリーの中に出現した、インド音楽+アメリカ音楽の真の融合体だった。
 〈Fire on the Mountain〉は〈Happiness Is Drumming〉から発展したものであり、ザキール・フセインは1975年の公園コンサートの時点で既に、この曲を時間的に後のほうのタイトルで紹介している。しかし、音楽的な系譜と個々の著作権は一致していない。〈Happiness Is Drumming〉はディガ・リズム・バンドの共同作品としてクレジットされていたのに対し、完成したグレイトフル・デッドの楽曲はミッキー・ハートとロバート・ハンター作とクレジットされている。興味深い真実はそんなにきれいに整理できるものではない。デッドの最も長く愛され続けてきた曲の1つは、ガルシアのギターが、インドの音楽家たちと、拍のあり方に関するインド的な考え方によって形作られたリズムの枠組みの中を動いていく、そんな音楽的な土台から生まれたのである。
 ディガの内部には、音楽と比べたら静かなもの、ヨガとのつながりも存在していた。タブラ奏者のオシム・チョードゥリの父親はハリダス・チョードゥリだった。ハリダスは1951年にサンフランシスコに渡り、シュリ・オーロビンドが開始した「インテグラル・ヨガ」のアメリカにおける初期の有力な指導者の1人となった人物である。
 ラム・ダス(本名リチャード・アルパート)は1967年にインドへ渡ってニーム・カロリ・ババの弟子となり、その後数十年に渡ってバクティ・ヨガや瞑想、その他のインドの精神的伝統に由来する思想を説き続けた人物だ。ラム・ダスは長年を経たのちに、多くの人々がグレイトフル・デッドの周囲で体験したものを表すのにぴったりなスピリチュアルな言葉を見出した。彼はガルシアへの追悼文の中で、デッドを「部族でも…家族でもない」が、「音の海」を漂う「意識の泡」であると記した。また、その音楽を、スピリチュアルな実践であり、人々が自分自身のより深い部分に到達するための入り口であると説明した。
 だからといって、デッドがインドの宗教的詠唱を意識的に手本としてコンサートを成立させていたことが証明されるわけではないが、インドの精神的伝統に深く影響を受けたある師が、そうした集まりをどのように理解していたのかを示している。つまり、コンサートとは「注意を向け、解放され、共に耳を傾けるスペース」なのだ。ガルシアはステージから説教をすることはなかった。彼は人々が共に音楽の世界に入り込めるような環境づくりを助けたのだ。
 キャリアの後半において、真に重要なコネクションがサンジェイ・ミシュラと繋がった。ガルシアは1994年7月、デボラ・クーンズ・ガルシアに同行してワシントンのグリーンピース全国本部を調査訪問した際、カルカッタ生まれのギタリスト、ミシュラと出会った。当時、ミシュラはそこで働いており、ガルシアと話をした後、自身のデビュー・アルバム《The Crossing》を手渡したところ、数日後、ガルシアから電話があった。彼はその音楽を聴いて気に入り、ミシュラの次のレコーディングに参加したいと申し出た。
 ミシュラが「なぜこのコラボレーションがうまくいくと考えたのか」と尋ねると、ガルシアはその音楽を「ちょうど良い中間点」と呼び、「オレには伝統的なものはできないんだ」と付け加えた。この言葉は、この記事全体の中で最も本質を突いたものかもしれない。ガルシアはインドの古典音楽を十分に尊重していたからこそ、自分の知識の限界を認識していたのだ。彼は伝統を模倣したり、その一員であるかのように装ったりする必要はなかった。ガルシアに必要だったのは、すでに独自の音楽言語によって異なる世界の間を既に自然に往来しているミュージシャンだったのだ。

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 ミシュラは、ガルシアの演奏が息づくのにまさにふさわしい空間を与えた。彼の音楽は、西洋のクラシック・ギター、ジャズ、そしてインドのリズムの要素を自然に融合させており、サミル・チャタジーのタブラが、このアルバムに特有のインド的リズムの多くを担っていた。ガルシアは《Blue Incartation》の3曲、〈Monsoon〉〈Clouds〉〈Nocturne/Evening Chant〉でエレキギターを演奏した。
 しかし、ガルシアはインドの古典音楽家のような音を出そうとはしなかった。彼は紛れもなく自分らしさを保ち、ミシュラのより繊細なアコースティックな音響の中に、探求心あふれるエレキギターの長いフレーズを織り込み、周囲の空間に耳を澄ませていた。それこそが、このコラボレーションを成功させた要因だ。インドの要素は単なるムードや装飾に還元されることはなく、ガルシアの存在感が音楽を圧倒することもない。ミシュラ、チャタジー、ガルシアはそれぞれの声を保ちつつ、真の対話が生まれるための十分な余地を残している。
 このセッションからは、1995年に完成したアルバム以上の音楽が残された。1994年12月のクラブ・フラントでのセッションから、これまで未発表だった3曲の演奏が2021年に《Front Street Outtakes》として発表された。〈Dancing〉〈Loving Sky〉〈Pranam〉は、《Blue Incantation》に〈Monsoon〉〈Clouds〉〈Nocturne/Evening Chant〉として収録された楽曲の別テイクである。
 スタジオでの磨き上げがはるかに少ない、ありのままのアウトテイクを聴くことで、コラボレーションがまだ形になりつつあった時点の様子---2人のギタリストとパーカッショニストが互いに余白を残し、応答し合い、さまざまな可能性を模索している様子---を垣間見ることができる。《Blue Incantation》は、ガルシアの最後のスタジオ・コラボレーションの1つとして広く評されており、彼の生涯における最後のスタジオワークの一部がここに収録されている。
 その想像上の逃避行は現実の旅になりかけた。デボラによると、彼女とガルシア、ミシュラは《Blue Incantation》のセッション終了後にインドへ旅立つ予定だったという。しかし、旅が実現する前に、ガルシアは1995年8月9日に亡くなってしまった。彼が生前語っていたその旅は、やがて別の形をとることになった。
 1996年4月4日、、皆既月食(プールナ・チャンドラ・グラハン)が終わった明け方前、デボラ、ボブ・ウィア、ミシュラ、そして少人数のグループがリシケシュ近郊で静かな儀式を行った。ガルシアの遺灰の一部は、バンドからの別れのメッセージが書かれた紙の上に載せられ、ガンジス川上流で散骨された。デボラによると、このアイデアはウィアが夢の中で思いついたものだったという。この儀式が秘密にされたのは、個人的な別れの場がデッドヘッドたちの集まりになってしまうことを誰も望まなかったからだ。
 11日後の1996年4月15日、ガルシアの残りの遺灰はゴールデン・ゲート・ブリッジの下の海に散骨された。その対称性はまるで自然に紡ぎ出されたかのようだ。ガンジスでの別れは彼の物語のインド編を運び、もう1つの別れはグレイトフル・デッドを誕生からから支えてきたサンフランシスコ湾で行なわれた。



 ガルシアのLSD体験中に流れていたラヴィ・シャンカールのレコード、デッドのリハーサルに取り入れられたアラ・ラカのリズムのアイデア、〈The Eleven〉の後のパーカッション・コーナーでのシャンカール・ゴーシュの飛び入り、 その締めくくりはアリ・アクバル・カーン作と伝えられる楽曲だったこと、4日近く続いたジャム・セッションの真っ最中に目を覚ましたザキール・フセイン、技術的な見せびらかしよりも美しさと魂のこもった演奏を選んだガルシア、しばしば見過ごされがちなディガの楽曲〈Razooli〉、ラム・ダスの「音の海」、クラブ・フラントで録音を行ったカルカッタのギタリスト、逃避の場として想像されたボンベイ、そしてリシケシュの近くで漂う別れのメッセージ――これらすべての詳細を総合してみると、全く異なる全体像が浮かび上がってくる。
 インドは、ジェリー・ガルシアの生涯の最後に付け加えられた単なる装飾的な脚注などではなかった。インドは何十年にも渡って彼の音楽世界を貫いていた静かな流れであり、リズムに対する彼の考え方、即興への信頼、そして形式の中に自由を求め続けた姿勢を形作っていたのだ。

The original Article "Before the Ganges: Jerry Garcia’s Secret India Story" by Sujit Sinha
https://sujitsinha.substack.com/p/before-the-ganges-jerry-garcias-secret?utm_id=97757_v0_s00_e0_tv2_a1dennhb6vuo7v
Reprinted by permission

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posted by Saved at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | Grateful Dead | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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